修道訓の解説
今は社会人として、益々その人格を向上しつつあるOBから、先般修道訓について説明を求められました。熱心な合気馬鹿ともいうべき求道者で、在学中四年間を通じて、たった一日だけ練習欠席があったのみと云う、現部員諸氏には到底想像もつかぬであろう驚異的人物です。これは、まさにこの一事のみにても”人物”と称すべきでしょう。このような人物が当合気道部からは二名出身しているのですが、その一人である。この人にして、而も自分の受け取り方の当、否を確認したい思いで、先日その解説を求めたとしたならば、当然現部員諸氏に於ては、定めてわかるような、わからぬような曖昧さであるに違いないと考えますので、今更の感ではあるが、回を重ねての七号に解釈する(私の)所を掲載する事としました。
ずばり一行にて解明するなら、合気道(武道、又は兵法、兵道)とは、天地自然の法に則った具体的行為なりと云う事です。一~二項は書く通り読む通りですから、以下三項目以降について-。
『力を練るや有形無心の事物より得る』とは、肉体の強化鍛錬を目的とする方法は、マラソンとか、兎跳び、走り跳び、鉄棒、四股、鉄砲等々によるべきで、武道修行については、神経作用を有する、対象を相手として、肉体の鍛錬目的としてはならぬことをいましめたもの。反応作用ある相手に対せば必然的に、反射神経(心の動揺)と競争心、つまり相対意識の発生につながるからです。なぜなら「道」とは絶対なる「一」なる存在にして相対なき世界、即ち真実ありのままの世界のことだからです。我々は「一」に「一」を加えることを和と考え勝ちですが、これは、和ではありません。道とは和の事でありますが、あるものに、他のものを加える-という無意識概念が既に相対観のなせる意識であり、これは人為人巧にして、道とは次元の異なる計数の世界です。無限とは、かぎりのないことであり、無極とは、窮まりなきことであり、無数とは、数の無いことであり、そのようなものが真実(道)の存在であるという事は、帰するところは、唯一無二の「一」ということであります。この事が相対ならざる絶対者-即ち道であるからです。武道は和なりであって、分別以前の無時間無空間の調和体(一つのもの)の事です。故に一つものである和の状態を分別した時に相対なる計数世界に堕落します。これが相対観です。真実の世界とは、いわゆる前三十三、後三十三と云われる、理屈も計数も策謀もないことで、唯一無二なる絶対界を云います。
故に
『心を修する神(真理)に近からんことを』は「相対差別感の起きぬ自分たらん」との事です。これらの前提を諒としての観点に立って、始めて理解の出来る修道訓と云えるでしょう。が、この修道訓を一応、直訳的方式をとって解説して行くこととします。
『天地一道に極るは無限の意』
これは、道とは「一」なるもので、一なるものとは、無限無極無始無終、従って不生不滅なるなり。と云う意味にて、このくだりは「道」なるものを、簡潔に唯一行にて云わんとした表現であります。「一道に極る」は、この世はすべて現象に過ぎぬものであって、真実存のものは道であり、道は天地を貫いて無限無極に遍満して存在する真実在なるものである。との意です。このような深奥なる意を諒解するためには、先づ「存在」と「現象」とをはっきり知らねばなりません。
現象とは、諸業〈行?〉無常なる熟語通り、五官の対象となるものは、すべて「空・無」なるもので、只、因と縁とによって、そのように見えるだけのもの(いずれは無に帰す)-これが現象というもの。そして存在とは、永久不変真実に在るもの-で現象を顕現させる本体のことです。現象という文字に対するならば、真象のことです。故に武道は現象にとらわれず、真象を把握せねばなりません。生き物を、生きたままに捕捉する行為となります。
諸業〈行?〉無常とは、すべては現象に過ぎず、この世に存在するものは何一つない。即ち、色即是空ということですが、事実この世が空無・虚無であるならば、森羅万象なるものは、顕現する筈はありません。森羅万象は、いわば実体に添う影でありますが、実体なくして、影は生じる道理がありません。この道理そのものこそが真の存在であり、これを「道」と称します。以前にも文集五号にも述べましたが、道は至るところに充満して存在して、処を得たる中に、その姿を顕わす真理にして、道が顕れれば万事、真・善・美・義・愛となり、調和おのづから備わります。これが縁和円通とか、自由無礙とか、また千変万化という事です。
天地自然(宇宙の真理である道)のあらわれることを真実(まこと)と云い、人為によって技巧を弄するとき、それは偽物となる。”偽”という字は”人”と”為”との合字なるも、むべなるかなです。故に人為を弄するとき、道は「けがれ」る。即ち「気枯(けがれ)」でもあります。
『兵道又無極を説く』は「兵法・武道に於ても又この道理は同じものである。」と云っているのです。そして、『剣一法の理心得らるべし』は、兵道又無極の意を重ねて繰り返した、いわば老婆親切にての、これは修辞的用法です。この場合の剣は武術、武略全般を総括して「剣」の一字を以って代表させたもので、故に「一法」とは同じ法則という意味です。無限も無極も、一道も一法も、すべて同じものを表現しようとしたもので、「道」即ち宇宙の法則を云わんとしての用語です。
『円和円通の理形』とは、道とはそのようなものなのであるから、道の無限無極性が姿・形となって具体化顕現した行為の事(わざ)を理形と云ったものです。故に合気の道とは、天地自然の法則(真(まこと))が、そのまま姿を顕わすものということなのであり、若しそのようであり得るならば、その行動は千変万化、自由無礙なるものあり。という意味です。従って、天地一道云々以降は、無門関という禅宗書での、下に記すところの垂訓と同様な意を表現したものであります。
無門関垂訓 修道訓
『大道無門(だいどうむもん) =天地一道に極るは無限の意
千差有路(せんさゆうよ) =兵道又無極を説く
透得此関(とうとくしかん) =剣一法の理心得らるべし
乾坤独歩(けんこんどっぽ)』=円和円通の理形の生ずる所以