歳月・人生・考
歳月とか、人生とかいうものが、そくそくと感じられるこの頃である。この文集が出る頃には、私も七十才を迎えていると思う。杜甫は「人生七十古来稀なり」といい、孔子は「心の欲するところに従いて矩をこえず」と。古来七十とは人生の決算期のようである。この年代になって悔みありとするなら敗北の人生といえるようだ。
「歳月は本、長し、而して忙しきものは自ら促す」
歳月はもともと長いものだが、心せわしい人は自分からそれを短くしている。天地はもともと広いものだが、心急ぐ人は自分からそれを狭くしている。の意であろうが、さて果たして自分はどうなんだろう。
歳月、天地とは時空。時空は即、生命である。故に天地はめぐって春夏秋冬を生じ、大地は四季によって万物を生ず。春の道は発生にあり、夏の道は成長にあり、秋は収めにあって万物実り、冬は貯蔵するにあり万物しづかにひそむ。万物ひそむ時、やがて大地を破って発育し、歳月はこれを繰り返して始まりなく終わりがない。生命の流れは悠久永遠であって、人生はまたこの流れの一時一処で、自然と人生はまったく一元不二である。
不生不滅、無始無終、死生一如、これが法界での真理ではあるが、三次元界での人生は生に始まりを見、死に終焉を見る。ここに世をはかなしと観る、生者必滅、会者定離なる日本人の陥り勝ちなる暗いイメージの無常観の因があるのだろう。が、諸業無常なるものの真意にめざめたなら、この世は光明燦々、物皆すべてが生きもので、死物などというものは皆無の世界であると気付くだろう。
悟道者であり、人生の達人とも思える彼の良寛禅師もある期間中はこの真理に気付かなかったらしく、彼でさえも次のような歌を詠んでいる。
「尊しや、祇園精舎の鐘の声
諸業無常の夢ぞさめける」
まことこの世は、諸業無常の法界なればこそ光明遍照、永遠の生の世界なのである。
秋に稲が実ると葉や茎は枯れる。が、それは稲にとっての死ではなく実りのよろこびであり、生命の推移転変である。死は、より生気にみちた新しいいのちのために不可分な条件である。今は十一月で秋酣である。秋刀魚、鮭などの季節の魚が食膳を賑わすが、彼らの寿命たるやせいぜい四年か五年なのであろう。その彼らにくらべると私達は今や七十年以上の生涯である。自分の心一つで美しく、よい人生たらしめるに充分な長さがある。
歳月は永遠であり、人生も又結構長しである。しからばこの長い人生を我々は如何なる生き方をなすべきであり、なさねばならぬか?それを教えたものが宗教というものだろう。宗教の宗は、大本、根本、基本のことであろうし、教とは、教育のことと思う。が、この教えというものは宗教によっても違うし、国によっても違うし、時代によっても変遷あり、教は必ずしも人生の指針とばかりはいえぬであろう。が、人は人らしく生きるべきである事は間違いのない事と言えるだろう。なぜならこれは「教」ではなくて「法」だから。
「夜もすがら一切経をを読みたれば
あるべきようの六字なりけり」
で、松が松らしいのは松の真、竹が竹らしいのは、竹の真。これ法である。法は永遠不変であり、不偏にして普遍なるものである。だから人は人らしく生きるのが真である。が、人として生を享けた以上、人には使命有りなどと言われると、何かをなさねばならぬ責務があるや、なる概念を抱き勝ちとなる。が実はこの概念が自分を束縛することとなり折角の人生を重くるしいものとし、いわゆる「自ら促す」こととなるのである。そもそも道とは当たり前な事を当たり前に行為することであり、人が人らしく生きるとは簡明な事である筈だ。では人が人らしく生きてる好ましく善い状態とはどのような状態のことなのだろうか?それは暢気で陽気で気楽で気軽な人間であるという事に尽きるであろう。暢気で陽気で気楽で気軽な人間なら当然取り越し苦労もないであろう。気負いもなければ、恐れもなければ憂えもない。これが「寂滅現前」で、それなら日々是好日の人生である筈だ。人に若し使命とか責務とかがあるとするならば、いつも暢気でいつも気楽で、いつも気軽でいつも陽気な自分になるという事以外には何もある筈がないと思う。一人々々がそんな人間ならこの世はすでに理想世界だから。
私の合気歴も大分長くなる。この間の歳月の積み重なりで得た私の合気道とは、合気の気、この気とは暢気の気、気楽の気、気軽の気の事であったと思う。合気道がそのまま実践(人生上の)武道としての価値の高さはここにこそあるのだと私は思うのである。
人生とは人が生きるという事で、名誉、財貨が生きるのでも、又、学問哲学が生きるのでもないであろう。随って人は人の真を行きさえするなら何の理屈もいらぬであろう。何もせずに落ち着いていられる人というのは、自分の考えの中にすっかり身をまかせ切っている心の安らぎを得ているからであろう。人間が何かを為す事が「偽」であり、道はただ成るなりの自成である。これが宇宙の真理である事を説いたのが老子の道であり、いわゆる無為思想であると思う。
「道は無為にして為すことなくして為さざるなし」である。
桃源郷の由来と思える理想世界を発現して見せたのがいわゆる老子の「小国寡民」なのだと思うが、その意がまことによくうなづけるのはやはり年のせいであろうか、それとも合気歴の年功なのであろうか、などと思うこの頃である。そもそも人間とは必要なもののためより、不必要なもののたけに努力し、働こうとする性向が強い。「自ら促す」という人生の浪費はここにその因があると思える。人がその生涯に必要として費消する物質の量などたかの知れた分量である。
物質文明は人間が生活の知恵として創り出したものであろうが、人間の人間たるゆえんである創造性の真意をはき違えて「心」を失った物質文明は自らの生きる道を閉ざし兼ねない。人間としての創造性とは、人生の喜びや楽しみを発見し、創造して生きる歳月の事で、人が人らしい生き方をするについては、不必要な発明も創造もいらぬ筈である。学問科学がどれほど進歩しようとも、およそ人間の創造力などはたかの知れたもので、我々の人生はそんなちゃちなもので生かされているのではない。生きるに必要な空気、水、光、温湿度、大地、万物のどれ一つと雖も人間の創り出したものではない。従って人としての創造性とは生きる喜びと楽しみの発見であると知るべきだと思う。
この世はまことに光明燦然、物音、喜々として光り輝く生の世界である。自分をとりまくすべてのものの真に気付き、その善を知り、その美を見出すならば人生のいたるところに喜びあり、いたるところに楽しみあり、それを見出すは我が心一つにありという事となろう。「人生七十古来稀なり」「子於呂の欲するところに従いて矩をこえず」すべてがごもっともとうなずかれるのは年齢のせいであるのか。それとも合気歴が長い恩恵であるのか。歳月を重ねる程、老子や禅語などが心中深くうなずけて来て、合気道の理とはまことに「剣禅一如」であるとうなずく次第である。