世の中
  文集も今回が十四号だということは、いつも同じようなことを寄稿してもう十四年になるというわけですが、間もなく六十七歳を迎える身ともなると、光陰矢の如しの感と共に、いい気なことを臆面もなく書いたものよという気恥ずかしさを覚えます。
 老子に「知る者は言わず、言う者は知らず」とありますが、誠にその通りで、知らぬからこその知ったかぶりを書けたのだということで、古聖の言に鞭打たれる思いですが。が、当部の文集が「道」と銘打たれているので、その意を体しての寄稿となると知る知らぬにかかわらず知ったかぶりのものとなってしまいます。知る者は言わず。と知ればもう何も言えず、何も書くべきではないな、と、書いたあとでいつも恥じるのですが、部に籍があって見ると部員の求めに応じないわけにはいきません。それが世の中というのものでせうから。だから老子その人も、人の求めに応じて多方面から道を説いて、いわゆる老子五百言が残されたのでせう。人が世にある以上、超然山中独居は許されざるなりと云うことでせう。その故は、山中と雖も世の中で、世を離れての人生はないからです。という事はとりもなおさず世の中とは自分の事であるという事です。が、私達はこの事実を度忘れ仕勝であります。とこで今回はこの「世の中」についての偶感を書いて見ます。
 私達の概念は世の中というと、物質的三次元の世界のみを対象として限定し、その結果日常が相対的、物質的な思考におちいります。が、世の中とは現世のみではなく、この三次元界は色界で、あの世というより高次元の実在界の中に生かされているので、すべては佛教での三千世界であり、老子は、これを、「道」と言ったものでせう。そしてこれが今我が国で広く使われるようになって茶道、華道、書道からスポーツ面にも使われているわけですが、競い合うことを目的とする種の面にまで何々道と、道(どう)をつけることに私は少し抵抗を感じます。私達の常識は、時というものには過去・現在・未来が有り、空間には東西南北の別ありとする思考で日常を弁じていますが、それは短見、誤見であるとの教えが宗教であり、道なのだという事でせう。
 古聖は世の中は三つの要因で成り立っていると説いて、釈迦はその三体を因果と言い、老子も又、一即ち「道一を生づ、一は二を生じ、二は三を生じて万物成る」と。ともに「世」とは三体構成だと云っています。そしてこの三体構成が循環の法によって永遠に転生輪廻しているのが世の中という只一つの生命なので、その大きな流れの過程に於ける物理的現象が私達のこの三次元界だというわけです。だからこの地球も、気圏水圏岩圏の三体構成であり、地球に生命が宿るのも太陽地球の三位一体であり、それをつくっている原子も陰外電子、中性子、陽電子の三つからであり、電気は陽性(+)中性、陰性(-)から、そして細胞は原形質、細胞質、核の三つからで、物質の元は粒子、電子というかそれらの波動で、その波動、粒子の集まり具合でそれぞれの物質をつくってるいいます。このように私達が棲んでいる色界は、より高次元界の大意識(神仏の慈悲)により、熱電気磁気重力等が組み合わさってそれぞれの異なった物質という第三の現象化が行われ、一度物質化されたエネルギーはある時間がたつと分裂するという過程を経て又エネルギーに還元する。この循環の法が佛教の転生輪廻という事で、故に、生命は不生不滅、不増不減なりといいます。
 いわゆる質量不滅の法則でしょう。水は雨、あられ、雪、氷、とその時で変容はしても、その性質のH
0は不変であり、その量も又循環の法によって増えることも減ることもありません。水も空気も三千世界でのすべては一つの大きな生命そのもので、この世の中には何一つ死物というものはありません。これが釈迦成道の句で「衆生(万生万物)本来佛なり、悉く如来の智彗徳相を具有する」との事でせう。万生万物はすべて生命であり、生命とは物の用に役立っているものということです。万生万物は自己を無にして他のために役立つ事が使命であるという事です。この理は私達の身体を小宇宙として見ればすぐわかりませう。口は胃へ食物を送るために働き、胃は腸への消化を助けるためにというようにすべての器官は一つとして自分のために働いてはいません。それぞれが皆、自己を空しくして他のための用に役立つのみです。だからこそ循環の法によって自分が生きて働けるのです。これが仏教で云う「諸法無我」で万生万物(諸法)に自我は無い。の意でせう。だから宗教の宗とは宗(おおもと)の事で、宗教は皆、真実の世の中の実体たる仕組みがそのように仕組まれているものであるから、人は自我自欲、自己のみを保存しようとするのが誤りなのであると説く教えで、それで宗教と云うのだろうと思います。禅でよく「父母未生以前の自己」と云いますが、これも一口で云うなら、世の中という自己の故事来歴の真実に目覚めよという事なのでせう。真実の世の中とはとりもなおさず自分自身の事であり、それは生まれることも死ぬこともない永遠の生命であり、その生命とは調和で成り立つものということで、これを老子は道と云ったので、今我が国で多方面に何々道と呼称されているわけでせうが、いやしくも道と称する分野には内容がこの調和が目的とされているものでなければならぬという事を私は云いたいのです。それで「武道は和なり」とか「武道は礼に始まり礼に終る」と云う事なのですが、和とは調和の事であり、礼とは秩序、つまり法の事です。故に道とは自を生かし他を益し且つ万物を生かすものであり、そのための条件が調和であり、調和がなるのは秩序が機能するからだという事です。してみる何々道と呼称するものには、そのまま真実の自己を知る人生修業に通じているものだと云えるでせう。
 今回の寄稿は「世の中」という主題ですがどうもうまくまとまりそうもありませんが、もう少し書き進めます。
 前述の如く、世の中とは万生万物が自己の生命を互換し合って成り立つものというわけですが、神仏は特に人間には創造能力を与えて万物の霊長たらいsめたその目的は何か。ということです。
 人間は万物の霊長で、人は神の子であると云われます。神の子とは神の後継者という事で、それは想像能力を与えられているからでせうが、その想像能力は、理想の世の中を創り出すためのものでなければならないでせう。が、人間は今、その能力を武器面に著しく発揮しつつあります。が、若し人間に武器が必要なものであるなら、人間は生まれる時武器を持って生まれて来る筈です。
 それは毒を必要とする毒蛇が生まれ乍に毒を持つようにです。
 老子は「大道廃れて仁義有り」と云いましたが、人が人らしくない世の中となるから仁義が必要になり、果ては武器が必要な悪い世の中となる事を云うのでせう。人がひとらしくなくなるのは何故なのかと云うと、それは人間が生きる方法と、動物が生きる方法とを同一視する事が原因でせう。動物は自分が直接餌を獲らなくて生きられません。が、人間は他のための用に役立つ自分でさえあるならば、食はおのづから廻って来ます。「法輪転づれば食輪転づ」とはこの事で、「人、各々生分有り、天地之を授く」とは道元禅師です。
 世の中が何故悪くなるのかと云えば、それは人が自分の故事来歴(その中の仕組)に疎
(うと)く、動物的な生き方の自我自欲、自己保存に走るからでせう。では何故神仏の子である人間が動物的になるのかと云えば、それは肉体を持つからで、肉体を自分と思い込むからでせう。が、人間の肉体とは、この色界である現世で、人が神の子としての役割りを果たすために乗るいのち(魂)の乗り舟であって、その船頭である魂が仕事をするために必要なのが肉体であるという意識を忘れてしまうからです。現世とは物理的な一時的現象の世界です。やがては雲散霧消するもので、永遠の世界ではありません。が、人は一度(ひとたび)この世の肉体舟に乗ると、永遠の実在界にあった自分の故事来歴を忘れて神の子である本来の自分の意識の九十(%)パーセントが埋没してしまい、肉体身となった人間の意識量は十(%)パーセント禅語しか顕在しなくなるからだと云われます。それ故、私達の認識は肉体による五官を基礎としてのものとなり、思考の限界を三次元界である現世のみなりとして、自我自欲、自己保存の生き方が利口な世渡りのような錯覚をすることなのでせう。が、錯覚とは間違いの事ですから、間違った生き方が幸せである筈がありません。随ってその生き方は自らの墓穴を掘っているという事です。それでも釈迦もイエスも極楽、地獄、天国、地獄を以って間違った生き方は不幸なりと説きました。地獄、極楽の説は釈迦の方便でも比喩でもなく、間違いなく存在します。なぜならそれが法則だからです。
 人は万物の霊長、神の子とは魂の乗り舟である肉体が人間なのではなく、肉体を肉体たらしめている本尊を「人のいのち」というので、故に人にいのちは地球よりも重しとなるのでせう。そのものが永遠の生命なりとのことでせう。
 古聖はそれが世の中の仕組み-即ち法なりと説きました。だからこの法と信じて足る事を知った謙虚な人の心は豊かで明るく安心立命に明けくれている事が、すでにこの世乍らの極楽状態であることの現証です。
反対にこの世を現世のみと思い込んで、自我自欲に明けくれて足る事を知らぬ人の心は貧しく、足るを知らぬ貧しい心は多忙で常に何物かに追われおびえている道理です。
この事実は、その人がすでに地獄行きの指定席に乗っているということの現証です。
この世を現世のみとする短見での人生は、我が手で墓穴を掘っているようなものです。
我欲、我執で入手出来るものにまことの財宝はありません。が、人は我欲、我執による望みがかなうと、心の貧しさは反対に益々エスカレートします。そして貧しい心はその人をして益々倣満な救い難い性格を形成させて行きます。そして本人はその事に少しも気付かなくなります。だから本人は人生の勝者のつもりでせうけれども果たしてそうでせうか。でも人は神の子ですから他人をだませても自分をだますことは不可能です。だからその人の心底はいつも不安で安心立命が出来ません。その故は自分に内在している潜在意識がちゃんと自分の誤りを承知しているからです。
「求めよ、さらば与えられん」とはこの世の財宝に我執せよという事ではなくて、自分に内在している永遠なるまことの財宝を求めよ、と云っているので、いわゆる「汝自身を知れ」ということでせう。「汝自身を知れ」とは神の子としての尊厳にして犯すべからざるおのれのあることにめざめよ!。の意でせう。人が神の子であることの証拠はどこにあるかと云えば、人は一人の例外もなく自分に嘘はつけないということです。
神仏は人間に神の子である特権として、創造性と自由性とを与えました。自由とは神仏と雖もこれを侵害はしないものです。だから人は幸せを創るのも不幸を創り出すのも、それを選択する自由は人間自身なのだという事です。それ故人間は自分の蒔いた種は自分が刈り取らねばならぬ宿命を負わされているわけで、自分の不幸不運とは神罰ではなく、自分の物の見方、考え方も誤りが原因だというわけです。
それで人生で大切な事はこの世の財宝を得ることではなく、自分の故事来歴にめざめて正しく物を見、正しく物を思うということで、このことを教えたものが釈迦のいわゆる八正道でせう。
余事乍ら八正道を下記してみませう。
一、正 見(正しく物事を見る)
一、正 思(正しく物事を思う)
一、正 語(正しく語る)
一、正 業(正しく仕事をする)
一、正 命(正しく生活する)
一、正 進(正しく精進する)
一、正 念(正しく念じる)
一、正 定(正しく定に入る)
以上が八正道です。
 故に我々は五官のみに依存して現世での地位、名誉その他財物欲のみに執着する事の誤りに気付かねばなりません。従って、古聖の説いた地獄と極楽という世界は五官で捕らえることは出来ないでも間違いなく存在します。それ故、地獄へ堕ちた人の魂は慣性の法則で恰度人工衛星が限度に達するまで廻り続けるように、その人の魂は自分の過ちに気付いて魂の修業を重ねて自分を修正するまで昇天することは出来ず、何百年も宙を迷い続けるでせう。なぜならそれが世の中の仕組みという法則であるからです。
それもこれも肉体身のみを自分であるとする誤見の結果で、肉体とはこの世の乗り舟であって、本当の自分とは魂であると知らぬからです。だから、人間の死とはそれぞれがこの世での使命が終えた時、魂という本来の自分がその乗り舟と別れることです。肉体は物という現象物であるからこれは土葬ならば土と同化し、火葬ならば大気にと云うように推移転変するものですが、神の子である人の魂とは、恰度、胎児が母親のへその緒と直結しているように宇宙の中心真理である神仏の心と直結している尊厳にして犯すべからざる永遠の生命なのですから死ねばそのまま無時間で昇天します。神仏の世界とは無時間無空間の世界で、思う事がそのまま行為となって実現する自由世界なのですから、再びこの世に転生したければすぐにでも転生が可能です。
 キリスト教ではイエスは三日後に再臨したという事ですから、イエスは三日間天国で休んでから三日目に転生復活したことになります。キリスト教での再臨とか、復活とは肉体というものの制約から離れた人間の魂というものは、このように自由自在な神性そのものの事を云うのだろうとの意味でせう。このように思う事がかなわない事は一つもない世界が天国であるということで、この反対に地獄へ堕ちた魂は自分の誤りを修正するまでは何百年経っても迷う続けるのみで、転生輪廻は出来ないのだという事です。
それが慣性の法則であり因縁果という循環の法であり、いわゆる業
(ごう)の平衡の法則であるというものでせう。
 老子曰く「天地仁非ず、万物を以て芻狗となす」と。
法は万生万物に平等です。善には善果、悪には悪果が平等という事で、三千世界はこの秩序が厳正に機能することで成り立つという事です。これを釈迦は「法」と呼び、老子は「道」と名付けたのだと思います。
して見ると色
(しき)の感覚(五官)を基礎としての認識では到底、道は悟れないでせう。然らば人生如何に生きるべきであるのか。一大事とは現在只今なり。一念万年であるならば、道を悟るなどという迂(う)遠なことこそ無用の長物(ちょうぶつ)ではなかろうか。一体極楽へ行って何をするのか。思う事が直に実現する自由自在な世界が、天国、極楽だとなるとどこに生きる事の楽しみがあるのか。苦の無い世界、楽ばかりの世界、そんな一方向きの世界などに生きていられるだろうか。人間は楽をしたり苦るしみをしたりするから退屈しないで面白おかしく生きていられる。苦の娑婆の中にあり乍ら苦を苦とせぬ自由性を有し得るおのれであることこそがまことの極楽というものではなからうか。本当の自由とは自己の意識の中に於いてのみである。
社会生活をしている限り自由などというものがあらう筈はない!と知る事こそが悟りでは故に悟りの開けた人には自分の生活があるが、悟りの開けぬ人には自分の生活も人生もないのであろう。
 一つの生活事象を不愉快と感じて心が動揺すると、その思いが念波となって色々の不都合事が起きて自分の生活が乱れます。自分の幸、不幸、生活を乱すものは何か。それは選択の自由性を持つ自分の意識の中に在り。と知る事が悟りでせう。首題「世の中」とは要約すれば自己の意識内にあるなり。という事です。だから真実の世の中とは一念万年(無時間無空間)、現在只今(永遠の今)の自己如何といえるでせう。然るならば、今日只今をどのような生き方をしている自分であるかということのみです。
そこで私も老子流の逆説的表現をして見たくなりました。「求むる有るは皆苦なり」ですから、極楽をも望まず、地獄へ堕ちるをも恐れざる勇者にのみ極楽の門は開くなり。と。
 知る者は言わず、言う者は知らず。ですから知らざるが故のたわ言として読み流して下さい。