道とは一体何だらう
「黄落の続く限りの街景色」イチョウやケヤキの木の葉が落ちるのを「黄落」というのだそうだが、そんな街景色の中を、ブーツ姿のサッソーとして女性が日ましに増えて来て、冬近しの候ともなると、例年乍ら頭が痛い事柄が一つ義務付けられる。
今年度もまた「道」という文集への寄稿である。
「道」とは何の事だろう。
東郭子(城郭の東に棲んでいる人)が荘子に問いかけた。
「道というものは、どこにあるのかね」荘子は答えた。
「どこにだって、ないところは一つもないよ」
「もう少し、どこそこにあると限定できないものかね」
「道は螻(けら)や蟻(あり)にだってあるよ」
「ひどく下等なものにもあるのだな」
「いや、(原文は、のぎへんに弟とある)のびえや稗(ひえ)にだってあるよ」
「いよいよ下等になってきたものだな」
「いや、屋根瓦や敷き瓦にだってあるよ」
「下等も底なしになってきたよ」
「それどころか、大便や小便にだってあるさ」
郭子は、もう返事をしようとしなかった。そこで荘子がいって聞かせた。
「だいたいお前さんの質問は、はじめから的はずれなのだよ。あるとき市場取締りの役人が、市場の管理人に、豚をふんで、ふとり具合を知る鑑別法についてたづねたところ、豚の体の下の部分に下がれば下がるほど、いよいよ正確にようすがわかると答えたという。(喜(よ)く人を用うる者は、之(これ)が下となる-は老子の言)お前さんも、道というものをせまく考えて、どこそこにだけあると限定しないほうがよい。そうすれば、道からもれるものをつくらないですむだろう。究極の道というものは、すべて余すところなく包むものであり、偉大な言葉というものも、同様にあらゆる内容をふくむものだ。道があまねく存在することを表す言葉としては、周(あまね)し、遍(あまね:原文はぎょうにんべんです)し、 (原文は空欄です)の三つがあるが、その表面は違っていても内容は同じで、道が普遍性をもつことを意味している点では一つだ。それほど道にとっては普遍性ということが大切なのだよ」と。
まさに「天地一道に極むるは無限の意」という事か。
道とは、人為を離れた自然であり、すべてが同一であり、価値の上下はない。したがって一事一物がそのままに道であり、一事一物として真理を宿していぬものはない。
ある僧、雲門(うんもん)(中国での悟りの開けた祖師)に問う。「如何(いかん)がこれ仏(ほとけ)」、雲門答う、乾尿(かんし)(かわいた糞かきべら)と。また、ある僧が、麻を秤(はか)っていた洞山和尚(偉い坊さん)に同じように問うた。「如何がこれ仏」、洞山答う、「麻三斤(まさんぎん)」。部員諸兄姉は、「如何がこれ仏」と「如何がこれ道」と「仏」を「道に」入れ換えて読んで見てくれたら納得出来るのではないだらうか?
子供の頃、「縁はいなもの味なもの」というような諺を聞いた覚えがあります。多分縁とは不思議なもの。との事でせう。「袖すり合うも他性〈生?〉の縁」などの諺もあるようですが、私もふとした機会で平井先生に縁を得て、この道に就くようになってもう四半世紀になります。何せ、中年過ぎてからのことですから未だに道がわかりません。だから今もって毎日ろくなことが出来ずに、うろちょろしてる次第ですが、この道二十五年の成果として気付いたことは、間違っても争ってはならぬという事です。そのためには、どんな自分でなければならぬのかと伝〈云?〉えば、
大きく叩けば大きな音が
小さく叩けば小さな音がする。
暢気(のんき)で気楽で気さくで陽気で
どこかかが抜けてて
少々阿呆のような自分という事です。
人生如何に生きるべきか?即ち崋竟人の道如何?と人問はば、上記なりと答えるつもりです。
武道とは、あたり前なことをそのまま行為する事だという。ところが、当たり前なことを当たり前と知るには何と長年月が所要される事だらうと、かえり見て嘆息が出ます。やはり中国で昔、偉い坊さんが「平常心是道」と伝〈云?〉いました。人としての平常心とは、一体どんな心の事なのかわかりますか部員諸君。それが上記矢口流の「道」即ち、大きく叩けば云々にして暢気で云々の「心」の事です。これが人の道なのだということと私は思う次第です。当り前な事とは、これ以上有難いことはないのだという事なのですが、こんなことがわかるのに二十年以上もかかる阿呆も世の中にはいるのだという事です。まさに不肖矢口、以上を以て寄稿とします。