合気道とはいかなる武道か

 

「合気道」は昭和17年、旧「大日本武徳会」に於いて制定された武術である。

その方法論や実技などは全て「大日本光輪会光輪洞道主 平井稔氏」の創意になるとはいえ、「合気道」という名称は、旧「大日本武徳会」が平井稔氏と合議の上、創造されたもので、特定の個人の命名によるものではない。

 

この「合気道」という名称は、旧「大日本武徳会」命名以前には、日本はもとより、いかなる所にも存在しなかった名称であり、「合気道」には数百年の歴史ありというような発言があれば、それは誤りである。ただ、実技の状態を表現した言葉として「合気」と言うような言葉を使用する事は、あったようであり、そのようなところから「故:植芝盛平氏」が自分のあり方を「合気武道なり」と呼称していたようであるが、「合気道」の名称は旧「大日本武徳会」以降の事なのである。

 

「合気道」とはいかなる武道かを論ずる前に、はっきりさせておかなければならないという点が、少なくとも二つある。

 

その第一は、「合気道」という名称の歴史と、「合気道」に於いて習練されている組型の歴史とは、混同しては「いけない」という事である。

 

第二は、「合気道」で習練されている組型が、古流の組型と同じようであっても、簡単に「同じもの」と認めてはいけないという事である。

 

今までに数多くの「合気道」の入門書なるものが出版されているが、それらの大部分が「合気道」という名称と、その組型の歴史を混同している。

「合気道」について論ずるのであれば、昭和十七年以降の事を、論じなければならない。

 

第二次世界大戦後、「合気道」と名乗る流派がいくつも現れた。

何と名乗ろうと「合気道」という名称は「商標登録」されているわけではないのであるから、自由ではあるが、組型の歴史を以って、名称の歴史と混同するような事は、感心出来ない。

そうした数多くの流派の中には、自ら道主などと名乗る方もあるようであるが、道とは「普遍・遍在の物」であり、もとより「主」などある筈のないものである。

 

我々が行じているものは、旧武徳会平井稔氏の創造した「合気道」であるが、彼自身「道主」などと名乗った事はないのである。

道に主があれば、その道は私道である。「合気道」の道は、断じてそのような「私道」ではない。

 

さて、平井稔氏によって創造された「合気道」とは、どのようなものであろうか。平井稔氏は常々「合気道とは柔術の事である」と言っている。人によっては「柔術」と聞くと体術を主とした古流の柔術を思い浮かべるであろうから、詮を入れておくが、ここで言う「柔術」とは「柔軟心」を「柔らかな身体」と「柔らかな技術」によって、表現するものを指しているのであります平井稔氏は、日本の伝統的な武術は、全て一つの原理に基づいて成立している事に気づき、この原理を習得する事により、容易に各種武術を身につける事が出来る事を知った。

 

その原理及びそれを習得せしめる教程を、「合気道」と言うのである。

 

もし、「合気道」の体系が既成の武術のそれと同様のものであったなら、それは、もはや「合気道」などと言う従来無かった名称を用いる必要のない物なのである。

 

平井氏が、いかにして原理の存在に気づき、その原理を発展させ、すぐれた教科課程を作り上げるに至ったかは、省略するが、「武道に神秘はない」と言うのが、武道修行者の心得とすべき事であり、平井稔氏も幼少よりの地道な精進の結果、そうした発見に至ったと、考えておいてよい。

 

では、平井氏が体得した原理とは、どのようなものであったのだろうか。それは、「球転無窮の理」である。

 

球転という言葉は、耳慣れない言葉なので普通、「円転無窮の理」と言われているのがそれである。

具体的には、身体の中心である腰のきわまる事のない球転が、全ての武技の根本である、という事である。腰が全ての動作にきわめて重要な所である事は、古来日本では、常識のようなものであった。

 

しかし、その腰をどのように鍛錬するかを考えた者はいなかったと、言って良いのではなかろうか。

組型を繰り返し練習する事が、かつての腰の鍛錬方法であったようだ。

 

腰の重要性は、手足の重要性とは別次元の重要性なのである。

従来は、その辺の重要性が曖昧であった。平井稔氏は、「腰の球転」こそ武術のみならず、人間の全ての動作の根元である事を確認し、直接、腰の球転を鍛錬する方法を、考案したのである。

 

その方法を「体捌き」と言う。旧「大日本武徳会」の時から現在に至るまで、平井氏は「体捌き」の重要性提唱し続けているが、かつて武術史上に存在しなかった「方法」だけに、「体捌き」の真の意味を把握出来る者は、極めて少ない。

 

ある流派にも「体捌き」と称するものがあるが、それは組型の一部を準備体操風にしたものに過ぎず、ある意味の「体捌き」と比較する事は出来ない。

「体捌き」は、準備運動ではないのである。「体捌き」は、八つの動作から練習を始める。

すなわち、「百八十度の転体」・「三百六十度の転体」・「入身転体」・「四方捌き」・「後ろ捌き」・「面摺り」・「小手斬り」・「磯返し」の八つである。

 

この八つの動作の中には、一つとして同じ動作が無い。という事を習練する者は、先ず知らなければならない。

 

また、この八つの動作は、「八つにして八つにあらず」、各々の動作も「一つにしてはならない」のであって、自由に連結して、無窮の動きになるのである。

ややもすると、八つの動作のそれぞれ組型のように、固定した動作であるかのように考えがちになるので、注意しなければならない。

「球転無窮の理」を体現する「体捌き」なのだから、元々教えられるようなものではないのである。「体捌き」を行ずるときは、この事をしっかり納得して、「体捌き」の中は、決して停止してはいけないのである。

 

さて、「合気道」の教科課程は、この「体捌き」を基礎として、「組型」・「教習」と発展していくのである。「合気道」における組型の練習は、教程の一部分であって、全てではない。

 

古武道の諸流派における、組型の意味とは、全く違ったものである。

古武道に於いては、各流派を成り立たせているのは、その流派独特の「考え方と組型」である。考え方は、組型によって体現される事は出来ない。

もし変えれば、それはもはや別の流儀である。

 

「合気道」に於ける組型の位置は、古武道のそれのように絶対ではない。

手段であって、目的ではないのだから、「合気道」の目的とするものにかなう組型であったなら、古武術はもとより、中国、韓国、いずれの国の武術でもそれを利用するものである。

 

従来の武術を習練した人から見れば、「合気道」とはまるで「雑炊のような武術」と思えるかも知れない。それは、一部を見て、全体を知らないからである。

 

一部の人は、「合気道」が成立しうるのは、諸流古武術が消えてしまう事を前提条件としての事と言う、訳の分からぬ意見を述べる向きもあるが、このような意見が出るのは、古流に於ける稽古方法と、「合気道」に於ける練習方法とが、全く異なったところに成立している事を見落としているからである。

 

例えば諸流古武術の組型に於いても、ある流派の組型は忽然と現れたものではない。

必ず先行する流派があって、その変形として現れてきている。

 

このような場合、ある流派が成立するためには、先行する流派が消滅する事が前提条件になる、とでも言うのであろうか。

組型の伝承を以て主としている古武術にあっても、そのような意見は決して、受け入れられるものではない。

 

ましてや、従来の武術とは全く違う教科課程を持った「合気道」に於いては、全く見当はずれの意見と言う他ない。

 

平井稔氏は、常々「一人一流」と言っている。腰の球転と言う根本的なところは、同じであっても、各人各種の気質、体形を持っている以上、現れる形態はそれぞれ違っている筈だからである。

身と心を離れての「技」はあり得ない。

 

「体捌き・組型」と習練し、次に入るのが「教習」である。この教習と言うのは、体術で言う「乱取り稽古」である。しかし、乱取り稽古であっても、従来のそれと全く違う所は普通、これに四種類あると言うところである。

「第一教習・第二教習・第三教習・第四教習」と呼ばれているが、それぞれ独特の練習方法によって成り立っている。

 

「合気道」に於いて習練される武術は、少なくとも、「体術・剣術・杖術・槍術」の四種類である。

剣術には勿論、「小太刀・短剣術」を含むが、この四種類の武術に於いて、それぞれ四種類の教習があるのである。「合気道」とは、どのような武術なのかを、極めて簡単に説明すると「体捌き・組型・教習」という教程がそれであると言う事が出来る。

どれ一つを取って、これが「合気道」であるというのは、あたかも手や足だけ切り取ってきて、「これが人間である」と言うようなものである。

 

この三者は互いに影響しあい、密接な関係を持っているので、切り離しては考えられない。

 

しかし、合気道に於ける全ての動作は、「体捌き」に還元される事を想起すると、「体捌き」は最も重要事と言う事が出来る。「合気道」の真髄は、「体捌き」なりとも言える訳であるが、これは合気道を学んだ者にして云える事であるから、一般に前記の如く三位一体で「合気道」と解釈しておく方が良い。

 

教科課程が即ち「合気道」なのであると言うと、道には付きもののような「精神的な面」の解説が抜けているように思えるが、精神面は技術面と独立して存在する訳ではなく、教科課程の中に於いて、生きて、生き生きと表現されているのであるから、別に精神面を説く必要はないのである。

 

「柔軟心」を「球転無窮の理」によって体現する、それが「合気道」であり、それを実現する教程が「合気道」であり、その体現を目指す行が「合気道」なのである。