捨身(しゃしん)
 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とはよく口にされる道歌であるが、道歌とは天地人間てんちじんかん)の法則を三十一みそひと)文字として表したものであろうから、人が生きる上での極意とも云うべき在り方を教えているものと思われる。
 即ち、人間が最も良い生き方をする上に於いての極意は「捨身」にあり。との事のようである。思えば釈迦もキリストも共にその生涯は捨身で貫かれていたように私には思われる。捨身とは生きながらに死に切った状であり、死とは私たちがそれに向かって成して行かねばならぬ一種の完成であり、従ってそこに到達する未完の状態が生であると言えよう。故に、死に完成を、生に未完をみつめる人に於いて始めて生に充実がもたらされ、しかして死生一如の真理がうなづけるものと思う。
「生は寄なり、死は帰なり」という。生きていることは迷路をさまよう寄り道であるが、寄り道をいやな面倒なものとする人にとっては、迷路の寄り道は苦悩そのものともなるであろうけれども、もともと捨身の境地にある人にとっては寄り道こそ願ってもない花も紅葉もと云う多彩な景観を満喫させて貰える楽しくも有難い時空と受け取れるのではあるまいか。迷路の寄り道をそのような受け留め方のできる人の人生には豊かさがあり、死は我が家への回帰、帰命であって、常に楽しげに生と死を語り得る人生観と生活信条の上に安心立命出来る人だろう。
 釈迦はクシナガラ城の近くの野原で草のしとねの上で亡くなったという。
 捨身の反対が執着である。自我に執着して一身の安楽や立派な建物の中での往生を願う人に、このような人生哲学は無縁と思われる。生に執着する欲望は苦悩を生じ恐怖を生む。苦悩や恐怖とは自己の意識の分裂の事であり、その因は捨身の欠如にあると思われる。
 型をつくらず、殻(から)ももつけない、将来の安定や固定を欲しない・・・そうした人にとって「死」はまさに完成だろう。
 涅槃(ねはん)とは完成であり、仏教ではこれを人間の最高の状態と云っているが、人間の最高の状である以上、涅槃とは死ぬこと、屍となることではあるまい。宗教とは生きた人間のためのものであるが故に、死生は一如なるが故に現在只今の自己の生き方が涅槃そのものであらねば充実した最高の生き方ならずといっているのだと思う。
 そうした生き方の出来るために必要なことが捨身なのだということで、いわゆる”身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”なのだということと私は思う。だから捨身の心を持てぬ人に充実した人生はあり得ぬものと思われる。
 この心の人の人生はまさに生ける屍と云ってもよいような気がする。
 特に昨今のサラリーマンの中には、すさまじい生きざまの人が多いようである。
 せかせかと食事をかき込み、バス停にかけつけ、酷電の中での読書、夜は商談の迷路をさまよい、ゆったりと食事、入浴、感謝と安息の時もなく、すべてがお座なりで両足をあげて飛んだり跳ねたりを、さも充実した人生と錯覚する。新幹線に乗っても経営書を読みふけり、日帰りで往復する。仲間が昇進すれば憎悪する。遊びも堪能出来ず、ゴルフもマージャンも贈収賄用かさもなければ博打(ばくち)化する。
 寛祐〈寛容?〉な人間を馬鹿という。かと思うと一方では、テレビの前でぼんやりビールを呑んでいるサラリーマンあり、休みになるとレヂャーに出かけて疲れてくる壮年のサラリーマンあり、賢夫人を自認してPTAの役員をしてしゃしゃり出てはいても、実は流行に追いまくられて苛々している中年主婦等々、自分をめまぐるしい世の中のテンポの中へ置き忘れて、その自分にさえ気付かぬ主体性、自主性のなさ、まさに生ける屍とはこの類(たぐい)ではないだろうか。捨身とはそのままが涅槃の境地の事で行住座臥が自分にとっての(主体性の上から云って)遊びのことだろう。
 遊びとは無償の行為であり、無功用の行の事だ。だからそこには時間が勿体ないとか、無駄な時間だというものは存在しない。
 人間はこの遊びの真最中にあるとき最も自己が充実して自由な時である。
 「達人に公(おおやけ)なし、只私欲の趣くままに従う」とは私が最も好きな言葉であるが、逆説的表現誤解なきを乞います。
 人間の寿命の長短は肉体年齢の長短ではなく、行住座臥を捨身で生きた人間が長寿者であろうし、人間の強さも同じように身体腕力の強健さのみではないだろう。
 いわゆる人間力とは人間の理にかなった人の持つ力であろう。我々は常に何が真理であるのかに迷い勝ちであるからこそ、道歌も宗教も生まれたんで、捨身の心さえ把握したなら、そこに涅槃境があり、そのまま真理にかなう生き方でもあるのだということと思う。
 『百尺竿頭進一歩』という禅語は即『捨身の心』を教えているであろうし、臨済語録の『随所に主となれば立処真なり』というも『捨身の心』で生きることが随所に主たり得る主体性ある生き様であることを教えたものと思う。古来聖賢の教えには逆説的なものが多いようであって、文字をそのまま棒読み的な受け取り方をすると何もわからずチンプンカンプン的となってしまうが、私の寄稿にも入部して日未だ浅い下級生方には或いは矛盾や反感を与えねばよいが・・・といささかの不安を覚える次第です。