道とは何か
昨年の「道」四号が刊行され、本年また五号が出るという。ついては何か寄稿をとのことである。「みち」とは一体なんだろう。
道は常にして名なし。
道の道とすべきは、常の道にあらず。
道は常にして、為すことなくして為さざるなし。などこれは老子である。
また或る僧は云う「平常心是道」なりと。他の僧はまた同じ問いに答えて云う。
「道か道なら垣根の外だ」と。
すると当たり前のことが道というもので而も常道にあらず。道とは目に見るを得ず、耳に聞くを得ず、その見るべく、聞くべきものは、道の跡であり、その跡に依って、跡なき所を悟らねばならぬものだろう。形声、色臭なくして宇宙に充満し、処を得たる中にその姿を顕わす宇宙の真理であって、道が顕れれば総てが真となり、善であり、美となり、また義となり、愛となり調和おのずから備わる。そなわったものが自由となり、一切のものがその処を得る。それがまたおのずからなる存在にして、自在ということである。
道とは天地宇宙の理体であり、この理体からすれば天地宇宙一大調和から成り立っている。生物無生物を問わず、総てのものはお互い相関関係にあって、どんな微細なものでも、お互いに何かの役に立ち合っているのだ。天の摂理とも云わうか、総てを生かすもの。この大きな道理、理体を道と云うのだろう。
老子の道というものも自由のことであろう。自由とは人間本具の創造的な働きである。それ故人間は「無効用の行」なるものに従事するとき(為や目的のない行為)人間は最も自由であり、創造的である。人間社会ではいづれの方面でも、自由なしには本当の人間生活は営まれないであろう。
文化的にも、政治的にも、宗教的にも、その根底には自由があって始めて、人間は他の存在と異なり、人間特殊の生命を生き能うのであろう。
自由とは広汎な無限大のもので、左に行かうと右にいかうと自由自在なことであり、自由のないところに、道も道徳もあり得ない。老子のいう知定安分-あればあるなり、無ければないなり、去る者は追わず、来るものはこばまず-ここに自由があると云えよう。道とは自由自在である。
道とは何故にそれ程自由なのであるか?道とは、相対を絶った絶対の一であるが故である。二は対立で、有限であり、自他あり、生死あり、勝負あり、障害物あることをまぬかれない。これは相対有限界に於いては、必然の理であるからそこに自由は存在しない。道、即ち真理はその本質上無限のものである。ところが人間は「これが真理である。」というように真理を限定し有限化してしまう。限定あればも早や自由はなく、道ではない。物、皆自然であるとき、それぞれが道であり、私意にもとづく人為によって、これを求めようとするとき、かえって道は見失われ、その姿はかくれてしまう。
人間の考え、というものは二ツのものが相対していないと出てこないもの。一ツだけだと何も考えるなどと云うことはない。このことが納得出来ぬと、無念とか無想無限などと云う「無」がわからないであろう。無念無想の語義は、放心とか三昧の境地のことで、我々が具象から離れることを云う。事物から離れて自由になる事である。完全に自由になったときが「無」であり「空」とも云う。
この「無」のこの「空」は何もない「無」の状態であると同時に総てを有して、その各々が融合融和して完全に調和した結果、相殺し合って無になった状態である。七種の色が融合されて、無色となっている太陽光線のように、充実しきったところにのみ生ずるのが「無」の境地であろう。武道で云うなら「静」とでも云うべきものか。静とは死の世界にあらず、動を含んですべての為さざるなき働きを秘めた完全調和体のことであろう。故にこの「無」とは有無を超越した相対思念のない絶対の 無 であり、絶対の一者である挙体全真の自己を云う。総てを包含して何一ツ、無いものは無いと云う意味の無である。これを一般による文字の概念から、何もない空無や虚無と思い誤り勝ちで、若しそうであるならその無は零の意であり、零はいかような加減乗除によるも何物も生ずる事なき死の世界である。
「切り結ぶ刃の下ぞ地獄なる
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
この道歌は今書いたところの無限の生命えの人の生きる道を詠んだものであろう。
「切り結ぶ刃」の意は刃剣を交えた時のことを云っているのではなく、自と他、有と無、勝と負のような相対二元観をいっているので「地獄なる」は勿論、死の世界、破滅のことである。「身を捨ててこそ」は相対二元思想である。自あり他ありの差別感を切断しての絶対界に超入することでそのような絶対の一者たる自己であるならば、浮かぶとか沈むとか、浅瀬だとか深淵だとか一喜一憂、常に何物かにおびえて生きねばならぬ有限界を超越して、無限の生涯、永遠の生き通しの人生たり得るだ。との人生に於ける最も大切なもの、大切なあり方を三十一文字にして、端的に教えたものだろう。
大切とは大きく切ると書く。「「身を捨ててこそ」とはこの事で、何を大きく切るのかというと、自他の区別相対思考にこりかたまっている自分を自分で真向唐竹割りに切り捨てるのである。日常用語の大切とは実はこの事を云うべきで、これこそが人生に於ける一大事なのである。そしてこの「一大事とは現在只今なり」と云う事なのである。
然からば現在只今とはどのようなものなのか。只今と云ったらも早や過去である。ここにも前述に云うところの「無」の字が出て来る。現在只今とは無時間、無空間の時点だからで、過去→現在→未来というこれは縦の線である。そして空間とはこの線に向って左から右え引いた線である。この縦線と横線の重なった交岐〈交叉?〉一点、一点といっても、点も何も無い無点で、而も全然空無にあらざる、実相で真実在するもの-これが現在只今で、この時点は去って去るところなく、来って来るところなく、生なく滅なく即ち過現未来にあらず。故に現在只今には時間も無ければ空間もない。随って時間は本来ないのであって、唯、有限界に於いての相対認識の形式なのである。生きているという事実の外に時間はないのである。それ故時間と生命は同義語なのである。時間と空間、有限と無限、生と死、勝と負と云うような相対する何物もない本源の一点-これがその実相である。この時点がいわゆる永遠の今-宇宙の究極は即ち本源の一点なり。これが無限ということである。わかり易く云うなれば山手線に乗り東京駅を発車したら、一番遠い駅は現在乗車した東京駅そのものなのである。
学生諸氏の年代では誰もが模索しつつある課題は「生きがいのある人生」とのことであろう。が「道とは何か」ということが納得行くならこの問題はおのずから解決される筈である。いかにも重大問題であるように思えるが、道とはあたりまえな道理を云うもの故、問題など何もないのが道なのであると悟れるであろう。「道は常にして名なし」「平常心是道」である。曰く「生きがいとは?」答えは問いそのものの中にあるのであって、つまり東京駅から一番遠いのが東京駅であって、生きること自体が生きがいであり得る生き方が出来る自分であることなのだ。
生きているというこの不可思議、不可説、不可商量なる事実の尊厳さに気付くならば、生きてある現在只今の自分が、どれ程素晴らしい驚異的真実在であり、無限の生命であり、いきがいであるかがわかるであろう。このことに気付かずして、生きがい生きがいと立ち騒ぎ自分の現在只今の外にこれを追い求めている人生を、迷える羊とキリストは呼んだのである。亡者とも云うのである。釈迦はこの名付けようもない不可思議、不可説、不可量なるものを仮りに仏と云ったのであり、キリストは主(創造者)と呼び、中国民衆は古来これを天と敬い、我が国では神とあがめ、荘子がこれを自然と云い、老子がこれを道と称したのである。
故に合気道という呼び名は、柔剣道、空手などとの区別、差別を表すためにつけた名称ではなく、日本古来の武道-道の上に武を冠したところのものを区別にて合気道というよび名で呼ぶに過ぎぬのである。他の武技、競技との区別、差別のためのものであるならば、も早やそれは相対二元にして道ではないのである。故に本来の意味で云うなれば、武道とは柔(自由道)道のことなので、おのれ自身でおのれを解放して自由自在なおのれたらしめるべく、最も近くして而も世界で最も遠いおのれへの道なのである。
武道とは絶対者たらんおのれへの道、とは云うは易く、行うは如何に竣にして嶮〈険〉なるかな。先夜の寮に於ける無礼講的な性格をもって雑談時ともなると意見や思考が百出して必ず論争的(相対)となる自分が、如何ともしがたくなる。しみじみと最も遠いのは自分えの道であると云わざるを得ない。
それぞれが皆、善意によるものであり自らを結果するのは相対であり論争である。このようなものであるものがそもそも人間そのものなのであろう。今后二、三世紀人類滅亡説のよって来たるゆえんであろう。
ここ三百年ほどの間の人類の考え方は間違っていて先夜の雑談もその大方を要約すれば近代主義の偏見であるように思われる。斯う云う近代主義的或は進歩主義の偏見によって我々人類は確実に滅亡の道をたどっている-のではなくてそれを早めているのだ、も早や如何ともし難い急坂をころげ落ちる石塊である。二、三世紀にして滅亡せざるを得ぬであろう。
而らば何の因によって然かるのであろうか?それは人間が幸福を求めるからであろう。求めて得られるものは快楽(便利とか進歩とか)ではあるが、幸福とは異なるものであることに気付かぬからであろう。人間は望むものをすべて手に入れたとしても、そこに残るのは恐らく、むなしさであって幸せとはほど遠いものであろう。
他者(人間のみを云うにあらず)えの愛と献身の中にこそ求めずして、そこにおのずから現前するものが幸せであり、幸せとは求めるものに得られる性質のものではないであろう。この理が納得されることによって始めて、生きること自体が即ち生きがいである底の人生たり得るものと思われる。
近代主義原理は人類の幸福追求の念の急なるあまりに永遠なるものへの信仰を喪失した、即ち神(真理)を忘れて近代主義原理をあたかも神の如く錯覚して、これを崇拝信奉してこれを正義となし、錦の御旗として考えた。この原理は成る程近代文明の花を咲かせた。而しこれが果たして、人類その他にとっての生の文明であると云えるであろうか。私は武道の上に於いての道理から文を思うに明らかに死の文明であると考える。この文明は人類を滅亡の淵え真逆落とし、とした転落させつつある文明であろう。これは真理と原理を混同し勝ちであった人類の自業自得的性格のものと云える。
すべての原理は相対なしには出発しないであろうし、真理は絶対にして無始無終である故、無限の生の世界である。道は我々にこの理をさとらせて呉れる。
終わりに学生諸氏は私を評して個人主義者と云うが、私には有難く喜しい言葉である。と云うのはうぬぼれ的に受け取る私であるが故で、個人主義とは自己を掘り下げ、自己を凝視する謂ひであって、武道とはそうであるものがその本来のものであるから。而し私はそれ程のうぬぼれ屋にあらず、多分諸君が個人主義者と利己主義者とを混同しての言であることをも承知である。呵々・・・・・・。