想いの事々
  教育と云うも勉強と云うも、すべては人が生きる上での学習であり生活であるべきもの乍ら、今日的教育や勉学も、又社会人としての義務にしても、余りに合理性と功利性に走り過ぎて、人生というものの根底にあるべき遊びの要素に欠け勝ちです。遊びとは-ここで云うところの私の云わんとする遊びの意を諒解されて、誤解なきを乞う。
勉学も仕事も、それを遊び、それ自体が楽しいから、喜びだから行う事であるべきだし、「遊学」という熟語にもあるが如く、学習とは何事についてもその根底には遊戯性が内在しているものが本来のものと思う。
随って遊びとはさわやかで晴れやかで、感激と喜びがあり、ヒステリックな興奮や苦痛や競争ではない筈。充実した人生とは、勉学は遊学であり、武道に精進する事も又遊びであり、自己の自主性にてそれぞれに精進する事が、そのまま自分の人生を豊かにする行為であって、過程がそのまま目的であり結果を求めての功利性のない事でなければならない。人間としてそうあるべきであるから、そしてその事が楽しみであり喜びであるから、好きだからするのだ-これこそが本物の生き方であり、人間に内在する遊戯性とはこの事で、この本物の生き方の事をと私は解します。
「道」日本での芸道と称するものは、茶道にせよ華道にせよ皆然りで、華道は花を活けるという行為そのものに価値をおいているもので、活けられた花はその表象に過ぎぬでせうし、茶道も同じで、誰よりも上手にお茶を煎(い)、呑むという事が究極の目的ではないであろう。
価値ある事は、人に内在する遊戯性、生き生きとした人間としての生の喜びがそのまま発現されての生活行為、即ち喜びを生きる豊かさで、合理性や功利性を超えたところにあると思う。このように日本での「道」と名付けるのものは、目的や結果を求める卑しさのない無効用行と云うもので、その精神、学習、修業という行為そのものに価値があり、その行為を通してその裏にある自然という法則から人生を学び且つ生きて、目に見えず、耳に聞こえず手に捕捉されぬ実在界の実質を受け取って、人生という日常生活を楽しく豊かなものにして行く心の調和を得る事が大切なのだという事だろう。故に「道」には発展や進歩という概念はないのだと云えよう。
西欧の学芸・思想が、常に新しいものを求めて発展進歩を善となし、それを求めてエスカレート的相対思想とはこの点が根本的に異なります。西欧思想は結果を尊び、結果を求めて行為します。
「道」は過程が即充実した人生です。故に道の小人は益々人生の内容を豊かなるものとし、求めずしておのずからなる”全機の把握”が可能となります。全機の把握とは全体一つの機(はたらき)としての生命そのものの把握です。生きものを生きたまま口中(こうちゅう)にする事で、生命とは形態や型式の事ではなく、生命とははたらき(作用)そのものの事であります。新陳代謝作用の事で、肉体そのものが生命ではありません。生命とは作用、働きそのものの事です。故に本当に健康な肉体の時は我々は少しも”肉体あり”の想念なしに働いている。そして肉体という固定したものが自覚されるときは、既に生命が停滞している時です。生命とは宇宙を満たして一杯にひろがっている唯一のもので、これを道と別称しても同じものでそして、道(生命)は秩序を乱すことはありません。秩序を乱しての生命の誕生はありません。秩序-とは首は上に、足は下に、左右別ありで、秩序とは差別に従って差別あるものをそれぞれ適当な位置に坐らせることによって、すべての万物は整っている。整うとは調和であり、すべては調うことによって生命たり得るのです。この生命というものは即宇宙という事で、生命とは唯一絶対の一なるもの。
生きものとは、働きという運動が必然であり、故にこの生命というものの運動の活溌々地
かっぱつはっち)性の面をとらえて「心」と云うのです。そしてこの生命の運動が停滞して静止状態となったものが即ち「物質」です。同じく生命の運動のひろがりが「空間」であり、生命運動の持続面をとらえてこれを時間と呼んでいるわけです。だからただ一つの存在である生命というものを、我々は四つの面から捉えて四つの名称でこの生命なる一つのものに「心」「物」「時間」「空間」と四通りの呼び方をしているわけなのです。故に心と生命とは同義語であり、時空と生命も同義語です。
人間は生命体であって、生命(働き・作用)だ肉体を去る事によって、この世の生活は終わるのですが、この生命が何処
(どこ)から来て何処へ去ってゆくかは、現在の科学では未だ判明せず、不可知という答がでています。この不可知なる生命の根源を神とか仏とかと宗教者は呼んでいます。が、科学が不可知であるという事はあたり前です。科という字は枝・葉という文字で、科学とは一つものの現象面をとらえて、枝葉を細分して究明せんとするいわゆるで、智は分ける学問意識でありますが、は森羅万象を一つの生命として結ぶものですから、道を悟れば全部が唯一のものとして判明します。これが”全機の把握”で、生命というものの真の姿を我たなごころにして眺めるのですから、こんな確かな判り方はないでせう。科学では未だ不可知とされるこの生命の根源が「道」なのであり、別な言葉を使えばいわゆる宇宙の理念-即ち「心」でもありますから、禅者は曰く、”禅とは心の名なり”と定義して全機を把握するのです。
では禅者の云う「心」とは万人普遍なる私達の一人一人の心の事ですが「心」とは一体どのようなものかを私見として表現して見ます。
心とは柔軟な渦状球のようなもので智性と理性、感情と本能の四つが融合調和されたもので、前述通り生命運動の活溌面の事なのだからエネルギーそのものであって、あたかも台風の目のような心の中心は無限の宇宙生命(宇宙の理念)に直結していて、私達の意識にあらゆる想念を作動している。だから私達の運命を複雑にしたり乱したりするものは、私達各自の想念に他なりません。従って自分の運命を左右するものは自分の想念の健全か不健全であるかによります。人間というものは自分の想念行為によって、どのようにも変化し得るように生まれています。その人の意識想念でその人の運命は定まって行くもので、自分の潜在意識に、悪や恐れや不幸等々の自己の神性、完全性を否定する想念意識を蓄積することによって、その人の将来は不幸を呼び、健全な想念意識のでの日常である人の生活は、すでにその時点で幸せであり、益々その将来は明るくひらけてゆくことになる。これが宇宙の真理で、それはそのまま私達の心に直結した心の法則です。だからこの世の不幸や苦悩とは、実は自分の過去世(父母未生以前からの自分)から現在に至れる誤った自分の想念が因をなしての因果の現れですが、現れは現象であり実体ではありません。現象とは、そのものが消滅する過程の姿で、現れたものは必ず消滅します。だから現時点の自分が不幸であるとしても、自分の想念意識が健全な想念行為へと転換したならその不幸は消滅します。この理を私は道場に於ては、”自分がかわれば相手がかわる”と実技を示して説いています。この現象界は常に古いものが蔽
(やぶ)れ、新しいものが生れて行くところで、これが法則乍ら、私達の想念はいつまでも過去や未来に囚われます。この法則違反が因をなして、日々新たなりという充実した人生たり得ないでいます。だから罰が当たるということは、罰とは自分が作り出すもので、生きている人間の不幸は生きている本人が作るものです。故に各人の現在の生活境地は過去生プラス今生の想念行為であると云える。すると下の如くなります。 

     想念 即 因縁因果なり そして 
  因果応報はことごとく想念より・・・・と。

神仏は自分を離れて存在するのではなく、神仏とは自分に内在しているので、このようなものが心というもので、心は常に前述の如く、智性・理性・感情・本能の融合調和状態でなくてはならず、智は調和を知るための早道であり、指針に過ぎぬと云えるでせう。それ故学識という智性の領域だけが発達しても、心の調和を欠いた人間は心豊かな人生を享(う)け難いという事になります。
現代の科学では未だ不可知とされる事さえが、道に中
(あた)った調和された心には、きわめてあたり前な当然の事として悟ることが出来る生き方-この生き方を身につける実践行を”武道は和なり”の一句以て表現するのです。人生のすべての苦悩、不如意事は心の調和を欠いての功利性に走る想念行為にあると云えます。
人生とは人が生きるという事で、仕事や物質や学問智が生きて行くのではありません。一大生命体内なる一分子である自己という生命が生きて行くので、生命は自由に把われなくはたらくことによって最高の力を発揮してゆくもので、この生命の生きる力、生かす力を阻止する想い(功利心)を出しただけ人生は不自由となり、肉体は不健康となる。故に人間は生命本来の生々とした光、即ち明るさ、素直さ、囚われのなさに向って生活目標を定めて行くべきでせう。
私達が肉体人間として生きているのは、大いなる宇宙そのものの生命が、人間としての自己に生きているのです。感謝に始まって感謝に終わる、日に新たにして又日々新たなる人生に不平、不満、不幸はありません。
”全機の把握”「道は近きにあり」で、この理を知る事が先見の明というものだろう。先見の明とは現在を飛躍して空漠たる未来を予見する占の道ではない!
先見の場は常に現在にあり。将来の発展の芽も病根の芽も、必ず現在の自己の想念の中にありと云えるでせう。自己の来処(らいしょ)も去処(きょしょ)も、智の分野なる科学では不可知とされるものであるから、この一事を取り上げて見ただけでも、学生と蝟も学問のみに偏向した生活は誤りであることがわかる筈です。必ず怠らずに「道」に自己を浸すべきです。道の場が即ち道場です。
「道は近きにあり」は格言乍ら、道場又学園内数歩に所在します。一日と雖も怠る事なく出席することこそ、よりよき人生への過程と信じます。呵々・・・・・