合気の道をたどり来て
  合気道部の師範を委嘱されて、数年間を指導に当たりましたが道の深奥なるを知って来るにつれて、自分の至らなさ、めくら蛇に怖じずであった、おのれを恥ぢて、師範を辞退したのが四年前でした。が、以後も客員として現在に至りました。部に席を於くこと十年を超え、未熟に加えるに、年令を思い、本年は、引き籠もる所存でいたところ、本年度の主将並に役員諸氏の真実熱意ある招きを受けてもだし難く、指導的な事は不可能乍ら、それぢゃ相手になる位のところならと、思いなおして、お邪魔している次第です。
 本年度も引続いて文集が出来るとの事で、役員諸氏より、日頃の口伝
(くでん)を文章にして貰い度いとの要請で、文字にいたしました。書いたものは、一、二年生の初心者には或は少し難解かも?が、これらは大体稽古終了後に於ける座談の場でのもので、合気道の実技に於いての「術理」と宇宙の真理である「道」との同一性を語ったもので、内容は上級生である三、四年生を対象としてのものです。が果たしてこんなものを文字として文集に掲載してよいのかどうか、甚だお恥かしい次第です。

 


 「合気道とはどのようなものか」とよく人に訊かれます。が、そのような時どのように答えたらよいのか私にも説明が出来ないで困ってしまいます。
 それはその筈で、大学合気道部の主将が過日の部誌で、「誰も知らない合気道」「下駄を揃える合気道」と誠によく合気道を表現していました。一日も怠ることなく三年間も練習を続けている主将さへも、道の深遠に戸惑いその指向方角を模索して、むしろ心中に悩んでいるらしい。熱心な人程そのような心情に陥り勝ちと云へませう。そのような暗中模索、生兵法は怪我のもと-。大学合気道部員での卒業生として、立派な卒業生であって呉れることを念じて、合気道の指向する理を把握して巣立って貰ふため-と、道しるべの燈の意味で、時にふれ、折りにふれて気付いた「術理」の内容(心)を、実技に対しての学科という意味で、黒板に書いたり、紙片を持って行って見せたりしたものを、今回の文集発刊に当って掲載出来るよう整理して貰い度い、との幹事からの要請ですので、その意に随って項を重ねました。随ってこれは「合気道とはどのようなものなのですか?」といふ問いに対するお答えでもあります。

 

 
 合気道とは、一言で答へれば武道の事であります。随って「合気道とは?」は「武道とは?」であり
 武道とは其の実技に於て、肉体を「道」に適
(かな)はしめる事で、「理念」が「形骸」に対する勝利であり、「生命」が「物質」に対する勝利であり、肉体が其の「物質面」を超克して、その「生命面」は飛躍することであります。故に武道は抽象的なものを実技といふ実践行為として具体化する事と云へませう。抽象的なものの具体化-そこに武道という道の世界がひらけます。

 


 先づ日本人なら誰もが耳にしている言葉に「武道は礼に始まり、礼に終わる」と云われていることと、武道とは?を一言にて表した言葉が「武道は和ない」という事であります。道の和は単に附和雷同の和ではありません。「人と和して而も自主性を失わざるものも強さ、これこそ強なる哉、矯
(きょう)たり」と言われます。即ち天地万物と融和して、而も随所におのれの主体性が把握されていることであります。
 「道」とは「和」の事であり、「和」が即ち宇宙の実体なのです。和とは「一
(いち)」の事で二つに分離したものは、分別、相対、であって「和」ではありません。
 「道の世界とは」「一」の世界のことです。人間の言葉や文字は、真実である「一」を二つに分けて片方に対象があって始めて成り立っているもの故、「和」といふものも、「礼」といふものも、いって見れば抽象性のものとなって、各人各様にその人の概念に依る受け取り方となりませう。この「和」や「礼」の実体を捕らえて具体化するのものが「武道」であります。
 「礼」とは「和」に至る実践過程であります。即ち抽象でなく行為なのです。「礼」という行為が天地の法則という道に適った行為である時に「和」が形成されます。
 これを人倫道徳面で云ったなら、たたおへば目上の相手に逢った時、「お早うございます」と言葉を発します。これは己
(すで)に口を開き言葉を出すという行為であって抽象ではなく実践行為です。その実践行為の内容である和敬の念が、天地、人情の方に適っているが故、そこにおのづから和気が融合します。「道は自から成るなり」という「和」の実体が具体化されます。
 武道におけるは同じで、礼とは武技面に於ての実践行為-つまり体捌という実技の過程を経た結果として和 が成り立った状態のことを、武道と云うのです。相対せる二者が、融合調和してもともとの「一」に帰入した姿を、相対、差別観による常情という色眼鏡に映ったものが勝、敗で¥なのであります。道は「一」であって、勝敗といふ相対差別のある筈無きに抱らす、勝った負けたが発生するのはなぜか?我々が実社会と信じているのは常情としては三百六十度を半割りにした、百八十度世界を指しているかららなので、真実の世界は無時間、無空間にして三百六十度の無限角度なるを観ない-。つまり我々社会常識とは理性で加工した視覚にもとづくものだからです。百八十度界に於て、投げたといふ事は、三百六十度界に於ては、投げられた事であります。故に武道の実技は、相対者からの攻撃は、そのまま相手がいかれているいう自らなる結果の発生でなければなりません。円とは三百六十度であり、これが無限角度に円転したものが球であり、球の無窮無礙性の理が具体化されることが勝、敗という現象です。兵法、武道の基礎は、一切がこの天地の法則に順応するという事で、あるがままにあるべきが要提だという事です。「肉体を道に適わしめる」とはこれらの事を云います。

 


 次は「基本」ついてのもの-。
 基本は即ち最初と、(極意)即ち最後は別にして別に非ず。前後の序列をなして現れるのである。最後は最初であり永遠に新しきものである。そして道の理と、人生面との同一性を蛇足として-「随って死は、より生気に満ちた新しい生命
(いのち)のために不可分な条件である」と。

 


 次に実技内容の理として・・・・・。
 「智も立つ事能
(あた)わざる所有り
  力も挙
(あ)ぐること能わざる所有り
  強も勝つこと能わざる所有り」。を引用して、智は智自身の掣
(せい)(ちゅう)を受けるから自由を欠く。力は支えなくしては力たり得ないし、いかなる力持ちと雖も、おのれを持ち挙げ得ぬ事。また強は、弱という相対対象物なしには強たり得ない。この理による具体行為が合気道なりと語りました。故に勝ってはならぬ。而してまた負けてはならぬものなり。とは如何にすべきかの理として「和」也。と
  「勝つものは怨を受く
   負ければ夜も寝られず
   勝つと負けるを離れる者は
   寝ても醒めても安らかなり」、を引用せり。
 次に四月二十二日
 武道修行者の心得として-多分老子の言ではないかと思われるが-としての言葉を引用して語ったものです。
  「善く士
(し)(た)る者は   武ならず
   善く戦ふ者は       怒らず
   善く勝つ者は       与
(くみ)せず
   善く人を用ふる者は、之が下と為る
   是を不争の徳と謂い
   是を天の極に配すと謂う」。と。

 


 教科書と違って順序がまちまちですが-四月二十日としてあり、「構へ」についてのものです。
「構へる」と云う事は、すでに何らかの予期予測事に対して、最早やとらわれている事である故に、「構へる」こと自体が、すでに全体的に不可分なるものの調和が破れて、いづれかの面への比重が多くなる偏りであって、一方が多過ぎれば他方が不足するところの「相対的不足」という自然の法則が作用する事を知らねばならぬ。  「何々の構へ」などとよく云われるところの「構へ」というものも、つきつめればそのような本質を持つことを知るべきである。 とこの日は書いています故に達人とか名人とかの位に達したならば「構え」などと云うものはなく、無構へそのままが完璧な構へなのであるとの意味を話しかつ書いたようです。
 『身を恣
(ほしいまま)にして守ることなき是を最上乗と謂う』という語が引用されています。
 また日付がありません此の日は
 無念とか無想とか無心とかについての事。
 念とか想とか心とかいう実体がどこかにあると思ふのは大間違いで、あるのは心と仮称される作用の事である。とあります。
 人間の思考とか意識とかは何か対象があって始めて起る作用であって、対象なしには発生しない。即ち相対、差別観の裏付けなしには思考も意識もないのだという事で、必ず自と他といふ二つの相対によって「念」「想」などといふ発生がある。これが二つでなく一つであったなら思考も意識もあり得ないが故に自といふ我を忘却した時のことを無念とか無想とか無心とかいうのであるということの意味を書いたものでした。 そのような状態の時の自分が実は本来の面目といわれる真性の自分であって、その場合に初めて人間は自由自在無
(む)(げ)たり得る。故に無念無想と云ふ事は『挙体全真』の事であって、例へて云へば赤ん坊がおもちゃに気をとられて自分とおもちゃといふ二の状態でなくおもちゃが自分であり、自分がそのままおもちゃになっているような状態であらうとの意を述べました。
 五月七日付ですこの日は柔、弱、惰、それから本心、妄心、残心についての説明です。
 柔は生気に満ちて用をなす状態である。
 弱は一向に力なくしてものの用をなさない。
 休は生気を離れず意欲ある状態。
 惰は生気なくしても早死屍に近い状態。
 本心とは一ヶ所に留まらず全身全体に延び広がった心の事。
 妄心とは本心が一所に固まり集った心。
 残心とは事
(わざ)にひかれることなく、心、体不動の状を云う。
など書きました。

 

 「切り結ぶ刃の下ぞ地獄なる
   身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
と云う道歌についての解説でした。
 吾々人間はすでにこのままで完全円満に生まれていて足らぬ処も、余分な処もなく出来ているのであって、何も思いわづらう必要はないのであるにもかかわらず、大、小、強弱、善悪、美醜、老、病、死等々なる相対観念を自ら作って自らを覆っているのである。
 此のような観念(妄想)を除去するには、その根元であるところの物質的肉体を抹殺することが必要で、キリスト教などでは胸に十字を切る動作をするが、これは肉体抹殺の意であって、十字とは肉体を×
(まっさつ)するという表現と思われます。
 本来完全円満にして自由無礙であるのが人間です。「生命」とは働きそのものであって、肉体そのものが「生命」ではないのでせう。道歌の意味するところの「身を捨ててこそ」もキリスト者の×十字も同じ意味であろうと考へます。
 吾々は本当に健康な時は少しも「肉体あり」の壮年なしに働いています。肉体という固定したものが自覚されるときは既に「生命」が停滞している時で、ろくな時ではないでせう。何の想念(相対観)もなしに働いている時の自分-これが生来、本来の自分であり、挙体全真であり、身を捨ててこその捨て切った状態といへるでせう。
 吾々は肉体ありの意識があるときは必ず我執し、我欲しています。故に我
(がの想念があるときは、我(われ)を守ろうとし、それ故に吾と我が身を自縛して自由自在無礙性を喪失します。我という肉体を忘却したとき精神と肉体とが混然融和してすべて一(いち)(天地万物)と和合します。ここに顕れたものが「道」そのもので、いわゆる挙体全真で、自分が働きそのものとなって本当の自分(大(たい)(が))が誕生します。「浮ぶ瀬とはこの状態を歌っているのだろうと思います。
 老子の言に云うところの
  『其の私無きを以ってに非ずや
    故に能く其の私を成す』
とあるのも、禅語にある
  『百尺竿頭進一歩』
も『身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ』も皆一様に同じ理会
(りかい)であると思います。
 この日はこれに関連しての蛇足として主義といふものについて考へ方が付随していました。
 いかなる主義も、それを振りかざせば執着になる。主義を守るためには他と争わねばならぬし、非を悟っても、その非から脱する事が出来ない。故に自分のかざす主義のために自分の自由を失う-自縄自縛することになる。これは偉そうであって実は断〈愚?〉かな話だ。
 それ故、智恵ある生き方は、すべてを知った上で主義を捨てるがよい。近視的目的事にこだわらず、宇宙一杯の森羅万象は元素、原子の離合集散によって生じまた滅するものであることに思い至らば苦も楽もない、随って執着すべき我もなければ我
(われ)無きところには必然として主義主張などあるべき道理も無い。と感じ取ることを欲を捨て、身を捨てるという。欲さへ捨てれば我々は永遠の平和を得るのだ。身を捨ててこそとはこれらのことで、おのれ自身をおのれが解放することを自由道(柔)と云い、自分の誤った観念(妄想)が、本来自由自在な働きする自分の手、足を自分が束縛していることを悟り、本来の自由無ぎな働きとさせることこそが武道なのである。武道とはつまり合気道とは?、人間の理想の世界は武力と競争のなかにあるのではないことを身を以って体験体得し、理屈でなくそれを具体的に我が身を以て表現した事実が武道であることを知るべきである。
 以上が道歌「身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ」についてのこの日の解説だったようです。
 次は四拾六年夏期合宿に際しての心得事項としてのものでした。
 『惻
(そく)(いん)の心無きは   人に非ざるなり
  隠徳は其れ猶
(なお)        耳鳴の如し
  羞
(しゅう)(お)の心無きは   人に非ざるなり
  辞譲の心無きは          人に非ざるなり
  是非の心無きは          人に非ざるなり』
 『道は古今たがわず
  首上に位し足下に居す
  左右別あり前後定まる』
等が引用されています。
 正しい道理とは、天地万物が斯うありうべきものと云う、自然の根本原理に立ち戻ることを意味して、すべてがあるべき様に在るという事であり、われわれが当然斯うあらねばならないちいうふ姿に素直に従って行動すると云うことで、この理を具体化したものが合気道に於ての体捌きなのである。
 故に合気道とは体捌きに始まり体捌きに終わると云っても過言ではない。
 一般に「武道は礼に始まり礼に終わる」と云われています。ここに云われているところの礼の意味は自然の法則という抽象的なものを云い、それを指向している言葉なのであって、これを具体化したものが光輪洞に於ける体捌きなのであると云へるでせう。それ故「礼に始まり礼に終わる」とは、体捌きに始まり体捌きに終わるということなのです。武道は学問でも宗教でも哲学でもありません。自然の法則宇宙の真理そのままが我が身に於てこれを具体化実践する体捌きの事であります。
 この項を読んだある人から次のような質問を受けました「我々が斯うあるべきもの」と云う「斯う」とは一体どういうことなのか?と、斯うあるべきものとは自然な自分-本当の自分自然の法則通りを実践出来る自分ということです。
 『松が松らしくあるのは松のまこと、竹が竹らしくあるのは竹のまこと』と芭蕉が云っています。斯うあるとはまことのことです。故に斯うあるべきとはまことの自分になることです。
 我々は生まれ乍らにして、余りにも不足もなく完全円満でありながら、我欲、我執其の他の悪習が心身にこびり付いてしまいました。
 随って本来の誠の自分ではなく、成長過程に於ける小さな範囲の環境での記憶と経験とを知識の集積体のような偽
(にせ)の自分となっていると云えませう。
 このような自分を本来の誠の自分に更生する実践動作が合気道であり、即ち武道なのです。
 この意味に於て云うものが武道は「礼」ということであって武道そのものが道徳的人倫の道を説いているものではありません。理は真理でありますから人倫の道にも通じますが、理はスヂであり、スヂとは条理、紋理、紋様で縞模様の事ですから、その出現する所によっての形や相が同じではありません。同じでないからこそ「理
(すじ)」なのです。即ち柳生の家紋は二階笠であり、徳川の家紋は三つ葉葵で表す如くです。真理は一つなりと云うと、この同じでないものを同じでなければならないとして縛ってしまうから、道は失われ、理は乱れて支離滅裂となるのです。
 手は手の働きをし、足は足の用をかなへるということが自由ということで、これが自由平等ということであり、これはいわば横の真理でありませう。
 しかしこれでは統一ある調和体ではありません。これに”中心帰一”という縦の真理が貫かれることに依って完全円満なる調和体となります。これがまことの自分です。このような頭の先から足の爪先に至るまで中心に帰一した統一体であることを『武道は和なり』の「和」と云うのです。和とは調和、融和のことで、相手と自分が和するためには、先づ自分が自分に和合していかなければなりません。これが必須条件であり、しかしてそれは道理というものでせう。自分が自分に和するには、自分が自分をする以外にその方法はありません。
 故に武道とは『自分が自分を自分する』という事でもあります。斯うして相手(外物)の強弱、大小、善悪、美醜に かかわらず、すべてのものに和合、同化し乍ら、おのれの主体性を失うことなくその中核に存在する自分であり得る自由自在性を如実に表現することが武道、合気道であるのです。
 このような「道
(みち)」「理(すじ)」を具体化して顕現する働きを武道と称します。故に武道の要諦は、常に”中心帰一”による全心身統一体を保持して一方に偏寄らないということで、これを「偏は嫌い申し候」と申します。これが大(おお)らかという事で、来るもの拒(こば)まず、去る者は追わず、有れば有るなり、無ければ無いなり、即ち「行雲流水」であります。
 すべて一つの技能、特定の道を立てて、みづから高しとする事は無限の道をそこなうものです。すべてを包含し、すべてをその可能性の状態のままに残して置いて一つの道を立てられないであり、一方に偏せずすべてに応じ得る(和合出来る)状態のおのれのあり方を武道用語にてこれを「残心」と云います。
 どのように得意な技であっても、これを意識して行うときは、かへって身を誤る危険を持ちます。自我意識による人為をやめて、自然のままにゆだねるとき、それは無限の変化技の生れる源となる。私意にもとづく人為によって対処するときは、道はその姿をかくしてしまふ。それは道をおしのけて自分(我)といふ人為人工が真理といふ道にさからうからです。
 道とは平常心(本来の自分)そのもので、感じと行為との間に何らの間隙
(かんげき)なく、思慮分別を挟(こば)まず、感覚即ち行為であるからです。
 道とは自然界のことであり、自然界の法則には我欲も我執も思慮分別もなく、あるのは実践といふ行為だけだからです。そして自然界には、ウソはありません。このウソのない感覚即ちそのまま行動となるような自由な自分が、実は本来の自分なので、これがまことの自分です。つまり前にかいた自我意識による人為をやめて、自然の法則通りに働き得ることです。無意識の意識による体働
(たいばたらき)、或は体運(たいはこび)となる自分-それが出来るような自分であろうとする修練を武道修行と云うのです。
 老子、荘子などの云う自然とか無為と云うものの実践と云うことでしょうか。
 無為とは対立差別を設けるという人為をなくすことであり、自然とはそこにあらわれるありのままの真相ということと思います。そして自然の第一主義は他者の助けを借りないでそれ自身の内にある働きによってそうなる事で、我々が実技の上に於てそうあり得るためには、いわゆる「彫琢
(ちょうたく)して朴(ぼく)に復(かへ)る」で、修業(精神面)と修行(肉体面)を重ね、過渡的段階に於ける意識的な努力と修練と云う不自然を経過するほかはありません。
 我々には本性と本能が同居しています。本性がそのまま無為自然的なものですが、合〈生?〉憎もう一人の自分である本能が無為自然にして自由無礙な本性の働きを妨害するが故に、自由自在な働きが出来ないで居るのです。すでに彫し、すでに琢しての結果として成り得るものが無為自然であるとは、過去は有為による練達自然ということとなります。
 有為自然、練達自然でもあるが故に
修 道 訓
『心を修する神(真理)に近からんことを念願する』のであり
『技を修する春風ほのぼのの気をもってするものぞ』という事です。
『力を練るや有形無心の事物より得るものぞ』は、心有るものを相手にして体力を養成してはならぬことを示されたもの。道は一であって、一とは対立を絶った、即ち絶対者。自他、相対差別等々なる二次元観を絶
(た)ち切ったものが武道であるからです。
 次は「道」即ち心理と武道、兵法との同一性を強調されたもので、練達に依る無為自然の境地は円和円通、自由自在無礙なることを訓えられたものです。
 「人には心が二つある、頭頂葉に宿る心と、前頭葉に宿る心と。頭頂葉に宿る心を、自分だと思っている人を覚めたる人といい、前頭葉の描く妄像を自分だと思っている人を、眠れる人というのである。覚めれば肉体を持つことも、持たない事も出来る。」これは岡潔先生が「神々の花園」で書いてゐる言葉です。
 「肉体を持つことも持たぬことも出来る」この抽象性を具体的に実技演出なし得ることが、「武道は抽象的なものの具体化」と云うことで、今日はこの抽象的な真理を体技と剣技で実証して見せます。
これを書いたのは九月十四日の日付けです。そして、この事は実技で当日説明しました。

 


 諸行無常とは宇宙の実相を、一言で表現した言葉で、万物流転の事であり、万物流転-それが生命の実相であり、生命の実相はまた時間そのものでもありませう。故にそれを一時ストップさせて、それからそれを解剖したのでは、生きたものはつかめない。故に武道という実践行為は、考える見る、つまり「考えて見る」働きでは生きたものには、手が届かぬという事で、思考という働きの限界を知らねばなりません。
 だから相手の働きを見て、頭で考えて働くということでは、武道という道はあらわれません。
 武道は動きつつある生きものを、生きたままに、とらえることでなければなりません。
 それ故、相対感(観)がある場合は武道になってはいないのだと云えませうか。では、それは具体的にはどのような事であるのか?
 万物流転とは始めも終わりもない事で、始めが終わりで、終わりが始めとは、瞬時の停止もない推移転変であろうから、反動なしの球転運動以外には考えられぬこととなります。
 反動とは偏りによって起こるものでせうから、球転こそ無反動にして無窮であろう。
 即ち”中心帰一に依る全身心の統一性”とは球の状態でもあります。球こそ無反動にして無限角度、無窮の転変が可能となります。この理を具体的に我が心身を以て実践しようとするものが武道であり、合気道と称します。(九月十四日)

 


武道という「道」 「礼」について
 武道は「道」であるとか「礼に始まり云々」の語は人倫や道徳面のものの如き感じ方や受け取り方となり勝ちですが、真理は一つ故、広義にての解釈をすれば、その面をも包含することとはなりますが、その顕われる紋様は同じではないのです。武道の道
(どう)は武技という実践面で顕われる真理の事であり、人倫道徳面で云うところのものとは、おのづから紋理紋様は異なるものなのです。
 老子の云うところの道-。
『道の道
(い)うべきは、常の道にあらず。名の名づくべきは、常の名にあらず。名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母なり。物有り混成し、天地に先だって生ず。・・・以て天下の母たるべし。吾其の名を知らず。これに字して道という。強いてこれが名を為して大という。道の物たる、惟(これ)(こう)惟惚(こつ)たり・・・』等云うところの形相なきもの乍ら真理であり、法則であるものが、形として相として、道として体現、現前する実技が武道という「道」であるのです。
 人倫道徳の「道」も武道の「道」も、その真理は同じ乍ら、実践として現れる縞模様は異なるものであるということです。
 前に書いたくだりですが「主義というものについて」の項で森羅万象は原子、元素の離合集散に依って生じ、また滅するものであるならば。苦も楽もない-と書きました。
 苦楽なしとは、相対差別なしということです。この相対差別なしという道理を、つきつめて考え乍ら書いて見ようと思います。
 先づこの宇宙世界は一大生命体でありませう。宇宙に始まりはなく、随って終わりはありません。そして宇宙を宇宙たらしめているものは、今の言葉では原子元素というようなものでせう。五官で捉えられぬものに対して、昔の人々は仮りに神仏とか、如来とか、自然、道、創造者、造物主等々、種々それぞれな表現語で、それぞれの受け取り方をしてのでせう。このように宇宙自体は流動、波動と云うか、エネルギー体ですから一大生命体であると云えるでせう。その生命が運動する、離合集散することに依って、物が生じ滅します。
 生滅-これはすでに吾々人間常識にての相対であり、差別であります。真理の上に於いては、実は生滅という相対差別はあり得ません。が、生命体であるが故の生命運動のひろがりが空間であり、その空間に形相(さまざまな物質)が生じます。そして、その生命運動の持続が時間であります。だから時間と空間とは二つのものではありません。これと同じ理で、生命の運動の静止的翻訳が物質であり、生命の運動の発動的翻訳が心です。
 吾々の精神を肉体も、このように不二の関係にあります。故にこの世は唯物でも唯心でもなく、不二、一元であります。即ち宇宙全部、森羅万象すべてこれ唯、神一元のあらわれであるばかりです。真実の世界の実相は一元であって、相対二元ではありません。
 時間のない所には空間は無く、精神無しに肉体もありません。逆もまた真であります。吾々は「生命
(いのち)」というと単なる物質面での自身という肉体を想定しますが、いのち、即ち「生命(せいめい)」とは、働きそのものの事です。一瞬も停止なき働き-これは生命であって、宇宙そのものであります。この働きという本質が自らなる因となり、縁となり離合集散の推移過程に月や地球や太陽が誕生して、その地球上に吾々人間の認識上に於いての相対感が月であり、地球であり、太陽という差別観となるのです。一つのものであり乍ら、顕われた形相が異なるだけです。それはちょうど、自分の身体を例にとれば、同じ自分であり乍ら、手の形と位置、足の位置と形相が異なっていると同様な理であります。つまり、あらわれた紋様や模様の違いに過ぎません。この様に巨視的観点から、理道(すじみち)をつきつめて見ますと、人生に於ける最重大事という生死の理会(りかい)もおのづから、それがどの様なものかが、おぼろげ乍らも納得されて来ます。人間としての認識の上からは、確かに生と死は存在します。が、生と死は相対であり、差別ですから、スジミチをたどると、実は生死はあり得ぬこととなります。宇宙と我とは一元同物質でありますから、宇宙に始めなく、終局なきことは、我々人間に生という始めと、死という終わりはないことにになります。これは生と云う紋様である模様が、死という紋理紋様へ推移変化したに過ぎないでせう。
 生死とか消滅とか云うものではなく、エネルギーという生命体の本質の推移であり転換でもあります。たとえば肉体が死して火葬されたら燃焼して気化した物質は、燃焼気化自体が生命運動であり、生命の推移変化であって死でも消滅でもないでよう。つまり肉体として現れていた紋様が気化という紋様として現れたという事です。又、かりに土葬されたとして腐蝕して土に帰ったとします。腐蝕すること自体が一時も停止することなき生命運動であり土に変化するということ自体もまた然りであります。してみると気化して大気と同化するも土壌となって大地に融合するのも、いづれにしても宇宙の外へはみだすことはありません。宇宙外へ消失消滅することは不可能です。としたならば宇宙大地に帰入同化した一元体であるといえましょう。故に我々の生や死は誕生でもなく、死滅でもありません。真理と真実の目を開いて見たなら瞬時も停止停滞なき生命体の推移転換過程の永劫無限に渡っての繰り返しであるのです。
 我々人間の認識は五官智に依る概念で現れた現実を真実と観る故に紋様や紋理が異なると、もともと一つものであるものを二つの異なったものであるように観るのです。これが「相対観」であり、相対とは関係であって実在(真実)ではありません。この事は科学の進歩(本当の進歩とは云えぬ)についてもそうであって、科学が一歩進めば益々未知の分野がひらけてくる。これは科学そのものはすでに相対的なものであるから。
 故に「生あるものは必ず死し、形あるものは必ず滅す」と定義されている。この真理は「逆も又真なり」の半面を見落としてはならぬでしょう。
 岡潔先生は「西洋の学問、思想は時間・空間なしには成立しない。従って西洋の学問、思想は理性で加工した視覚に過ぎない。」といっています。これは宇宙の実相が無時間無空間の一元界であることを知らぬといっていることで、学問も思想もすべてが相対二元という基盤から成り立っている。故に科学そのものは進歩し先進して自らを先進民族と思いこんでいるが、これは逆に一を知って二を知らぬものといえよう。理性と視覚にたよる証拠主義が科学であり、科学は物を全機-つまり全体一つの働きとしての一大生命体を捕らえることは出来ない。科学とはものを現象面から部分的に枝・葉を集めて把握しようとするものであるから。すべてのものは部分、部分を完全にしたならば、全体はぼやけてしまって全機としての生命体は死んでしまう。今この地球がむしばまれ危機を迎えているゆえんはここにあるものと云えるだろう。
 相対とは対立対処であって策に対するに策をもってすることであり、策は策にたおれるものにして、武道で最も忌み嫌うものである。「道」が最も忌むところの「策」とはとりもなおさず人為人工という人智であるが、人智という人間の智恵は、物を理解しようとするときは必ずその物を二つに分け、対立を設けるものであって、対象なしには人間の思考は発生しません。そしてこの対立を設けることが人間の言葉であり思考、認識なので対立をつくり分別をするのであるからこれは相対差別です。相対差別を離れては人間の言葉も思考も認識もあり得ないが、相対差別にもとづく認識が果たして事物のありのまま姿をとらへるものであろうかというかという事で、特に西洋の学問、思想、科学は分別という人為によってありのままの物の姿・自然という一大生命体を損なってしまっていることを認識せず、自分の認識をすべてと錯覚しているのではないだろうか。本来一つのものであることを度忘れして、我々人間は一を没却して二からスタートしているのであることに気付かねばなるまいそしてその事が「道」なのである。

 


 この辺でよく云われるところの間合の「間」の問題にふれてみませう。
すべての存在は全機であるという一元界からこの間合といふものを考へてみませう。
間合とは時間空間のことですから一元本来の意味では間合というものは始めから無いものです。この無いものをあるが如く錯覚しいると云へるでせう。そもそも時間というものは本来ある筈のものではありません。無いのです。「生命」の運動のひろがりが空間であり、「生命」の運動の持続が時間と翻訳されるものです。我々が時間と云っているものは過去、現在、未来を流動するところの現象時間です。純粋時間又は絶対時間ではありません。純粋時間又は絶対時間とは、我々の超時(過現、未来、の差別相対を超越)の生命そのものであって、「久遠常在の今」の事です。若し過去、現在、未来といような時間の経過が本当にあるとしたなら、時間の経過のためには無数の静止せる時間点をつばぐ時間の流動がなければ成り立ちません。「時間の流動」は静止せる時間点の集合だけでは成り立たない。死者を一万人集めても生きた人間一人とはなり得ぬ理です。随って我々が通常云うところの時間とは「現象時間」であり、現象時間は一種の空想時間であるから時間は本来ないのです。時間とは即、生命そのものなのです。して見ると我々が考へているところの時間とは唯、相対認識の形式だという事です。時間が本来ないのであるなら、当然空間の存在もありません。時間空間がないのが真実故本質を解明したなら間合せといふものは実はないのだという事なのです。
 相手に対する自分という認識の上に立って一つまり相対観、相対認識の形式上にあるものが間合なのです。
 このことはアメリカと日本とを例として考へればわかります。常識的識認では、日本は狭小国であり、アメリカは大国大陸でありますが、その常識的概念を排除して太平洋の海水をすっかりかき出して見るとします、当然日本とアメリカは地続きであって、割れ目も裂け目も、そしてしきりもありません。すると日本とアメリカは一枚岩であるから日本とアメリカとの間には時間もなければ勿論空間はあり得ません。この理は地球と月とを例に取っても同様で、地球と月の距離即ち空間が三十何万キロとかいふ我々の認識は相対観による差別であって真理真実でないということです。なぜなら海の水も、地球と月を距てる空間も、ともに同一元素であることに間違いないからです。片や海水という現象となって五官でとらへられる紋様であり、一方は五官で把握し得ない空間と云う紋様であって、真理と云う紋理が異なった様相で顕われたに過ぎぬからです。故に真実の世界に目を開いたなら地球は月であり、逆もまた真なりです。随って地球も月も星も太陽も、それぞれが一元という一つの屋根の中に、それぞれの位置すべきところに、目に見得る紋様を表現しているので、目に見得ぬ空間というものも、全部を含めて一つものであります。一つものに時間とか空間とかの弁別、差別の相対はあり得ません。これが全機-全体が一つの生きものという一大生命体であって、全体が一つの働きそのものであるのが宇宙であります。故に時間などというものは、本来は無いのであります。生命そのものを時間と云うのです。時間と生命とは同義語であります。武道というものに本当に目が開いたなら、それ故間合などと云うものは、本来は無いものであることが真実なのです。
 蛇足乍ら、時間が本来無いものであるという事は、当然乍ら空間もなく、生、老、病、死というものも、本来は無いという事です。即ち強弱、大小、美醜なしという事で、それが「道」即ち真理であると云う事です。

 


 柔道とは自由道でもあって、相手を自由にしようとするのではなく、自分を柔らかに、自由に捌こうとする行為であると云う事です。
 相手を我意に随わせようとするのは我意の主張で、これは人為-つまり「為(な)」すであり、そうならざるを得ない理によって、相手が自(おのずか)らたおれるのは「成(な)る」であります。
 「道は自ら成(な)るなり。」であって、為(な)すものではありません。
 よく「剣禅一致」と云われますが、これは剣理も、宇宙の真理も、その理が同じものであると云うことで、世界の実相は決して弱肉強食ではなくて、調和によって成り立っているのであり、調和の「和」を「武道は和なり」で表現しているのです。
 我々人間の目は、余りに大きなものも、余りに微少なものも見得ません。暗いと見えぬし、遮蔽されたものも見ることが出来ません。人間は目でたしかめ得るのみの範囲での、概念を形成してしまって、すべてを認識してゐ勝ちです。故に往々にして、真実なるもの程、むしろ反対な想念を抱きます。弱肉強食思想にも、この事が当て嵌(はま)るでせう。たとえば牛の乳は牛の仔(こ)が飲んでもまだ余る程出るように、自(おのづか)ら生まれついているのが牛なので、牛は牛飼いから乳を奪われているように観る思いは誤りです。または草という生きものを食っているのだから、弱肉強食だと見えようが、実は草と牛とは互に生かし合っています。牛が草を食べて排便する、排便は又肥料となって草を生かします。牛が呼吸作用で炭酸瓦斯を呼出すると、草は同化作用で炭素を吸収して、酸素に還元して牛にもどす。草は牛に食べられたら痛いかと云うと、決して痛がらない。
 又、我々が野菜を食べても同様で、野菜は痛がらない。移動することが出来ない野菜は、人間が食べることによって、地球上に到る処に自己の生命が拡大されて栄え得る。
 樹木に美しい果(み)がなるのは、動物に食べさせて、食べさせる事によって、自己の生命を拡大存続させ得るのです。まだ種子を残そうにも、種子が成育していないで、食べられては困る時分には、苦かったり、渋かったりして、イガで包んだり、その色も木の葉と同じ色をして、見つからないように隠れているが食べて欲しい頃ともなると、熟して鮮やかな色となって、目につき易くなって、動物の食欲を誘う。これを動物が食べてやらねば、植物は却って、自分とその種族が滅亡腐蝕します。自分で腐って、果実が落下し、種子が露出して、その樹の根本に種子が重なって、種子が生(は)えても、育ち得ない位に密生し、親樹(おやき)の下で、日光も夜露も受けられず、健全に成育出来ないから。
 植物は足がないから、樹のかわりに鳥獣、人間が、足がわりとなって、種を搬んでやる。そのかわりに、種子の周囲の果肉を食べて、動物も植物も生きるのである。このように足らざるを補い合うことが調和であって、調和によって、すべてを生かそうとしているのが、いわゆる「道」であって、宇宙の実相は調和による一大生命体なのであるというのが、私の武道歴による信念であります。弱肉強食との観念は誤りであり、大いなる局面(実世界)を見得ない、近視眼的な観念と云うべきでせう。
 相手が強ければ強い程、自分は弱く弱く相対する。相手が大きければ大きい程、自分は小さく小さく、うづくまる。ここに調和の和の世界が開けて、宇宙万物円転の理によって、強は即ち弱となり、弱は弱にして、すでに結果的の強へ円転します。
 この理が禅で云うところの「有は無にして、無はまた有なり」であり、老子の云う「其の私無きを以てに非ずや、故に能く其の私を成す」ところの「剣禅一如」という、真理の具体化が顕れます。
 項を重ねているうちに、いつの間にか「剣禅一致」についてということになってしまいました。武道精進とは云えぬ私です。が、武道歴が長年に及びますと、本当に剣禅の一味なる事を痛感します。
 「平等性の大海は、森羅万象を包含すれども、ただ絶気のものを含まず」との禅語があります。絶気とは「死屍」の事です。
 宇宙は無限大の世界であるが、この中のもので死んで屍(しかばね)であるものは一つもない。との意味ですが、この語の間違いのない真理であることがうなづけます。
 今頃、月の世界が生の世界か、死の世界かなどと、科学上での問題らしいけれど、真理の目から観たなら、生の世界であることは、論をまちません。唯、科学という人間智的設定の観点での、生物無生物という相対感では、死の世界と観るかどうかは別問題です。万物流転  この世の中で不変なるものが皆無であるということは、この世は一つで対立物のない絶対界であり、即ち一つの大きな生命以外であるという事です。一大生命体内部のものは、恰度我々の爪や毛や目に見えぬ細胞の一分子に至るまで、切っても血も出ず、痛くも感じぬからとて、すべてこれ生き物で、生きていることに間違いないことと同様に、一片の鉄屑や小石の端と雖も、皆、これ生命体内の一分子であるからです。
 宇宙という一大生命体、それ自体は始まりも終わりもありません。が、地球も月も太陽も星も、これらは一大生命体である、生命運動の新陳代謝過程ですから、始めがあり、随っていつかはまた雲散霧消しますが、雲散霧消や離合集散は死屍となることではありません。その事自体が無窮の生命運動である新生であります。
 この理が納得されたなら、禅語に云うところの、真人に「生老病死なし」が真理であると悟れます。
 武道での極意と云われる
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」などの真意も。自らうなづかれる次第です。

 我々が真実の世界と思いこんでいるのた世界が、実は現象の世界であったこともわかります。現象は実体ではありませんから、これは空相世界でもあります。時間の問題にしてもそうです。
 我々は相対認識の形式である、時間というものを本当のもの時間があるものと思い込んで疑いませんでしたが、絶対者である一大生命運動に、相対的な時間などある筈はないのです。
 私は武道歴未だ浅かりし年代に於ては、禅語などを目に見、耳に聞いたりしても、全然ちんぷんかんぷんで何のことやら。唐人の寝言か、狂人の独善のように思っていました。が、武道歴が重なるに及んで、これらの禅語が、真実である真理を喝破したものであって、実に有難い教示であったことが、わかって来ました。禅のとく真理がそのまま、人生の真実の生き方でもあり、また武道の奥義であることを感じています。