人は何のために生きるのか?
人間を含めておよそ生物に生きているという事実そのものには、何らの目的を持つものではない。という事こそがそもそも生物というものであり、又そのことが生物全体の特色なりと言えるであろう。生物とはつまり人間をも含めて、そのすべてが生きている為に生きている存在なのだと言えると思う。それ故に、人生には”目的”というものがある筈はなく、我々が”目的”と考えているものは、所詮それぞれの個人が任意に設定したものに過ぎない。にもかかわらず我々は何となく、何らかの「目的」を遂行することが生きる目的のように思い込んでしまい勝ちである。という事は、我々は人間としての生き方について錯覚をしているとも言えるであろう。そこで私は次のように思う事がある。政治家のみならず、企業家も医学者も科学者も或いは評論家も学者等々のいわゆる知識人といわれる人々の学問的著作といわれる殆どが、学問のための学問でしかなく、あるのは自分たちの創り上げた格式ばかりで、人間が生きるために当っての本当に有益なものは少なく、むしろ私に言わせると殆ど無いとも言い度くなってしまう気がする。
すべてがノウハウとか言われる場当たり的、目先のみなひと惑わせなものばかりで、人間にとって、一番根本的哲学に欠けるものばかりである。
哲学とは賢哲の希求という事だろう。であるならば、人間にとっての哲学とは何か?となるなら、人間としての良識と自制こそが人間としての存在価値でなくてはならない。そうであるためには我々が生きる目的は我々に与えられた人間としての寿命を自分なりに出来るだけ豊かに生きて行く事しか無いであろう。
中国には”桃源境〈郷?〉という言語があ桃源境とは各自が与えられた環境と寿命を心豊かに生涯を暮らし得る所であり又その方法でもある。それには人間はどのようでなければならないかという方法を具体的に表現して見せたのが、いわゆる老子哲学に於ける「小国寡民」の事であると私は思っている。
今我々が棲むこの宇宙船地球号はこのままの進歩?状態が続くならば二百年を出ずして人類は共喰いの状態での絶滅は必然であると言わざるを得ない。それを避ける道は、人間としての良識と自制に依る人口問題がすべての根本であるのであろう。
そうならぬための具体的表現が老子の、すでに二千五百前の教えであり、それが「小国寡民」であり、又その政治的基本原理が”鼓腹撃壌”でもあるように私は思う。
私には何の脈絡もなく、ずるずるといつの間にか筆のみがいらざる方面へ走って行く癖があるので、表題のしめくくりのみを書いて文集への寄稿義務を果たす事とします。表題は「人は何のために生きるのか?」であった。別な表現をするなら「人生如何に生きるべきや?」にも通じるであろう。ならば我々の現在只今の生き方は毎日の生活に喜びと意欲を持ち、すべてを良きものとしてその心に安住し、余計な人間関係を思う事なく、いわゆる「自灯明法灯明」なるおのれであることに尽きるであろう。
いつもの口癖乍ら、今日も又暢気で陽気で気軽な自分-。ただそれのみが自分への道であると私は思う。
「僅か六、七十年の寿命の身であり乍ら、天下の乱れるのを憂えるのは、恰度、黄河の水量が少なきを憂えて泣いた涙でその水嵩を増そうとするようなもの。天下の乱れるを憂えずしてその身の治まるを楽しむものは共に道を謂うべし」
これは荘子波の准南子の言である。私はもろ手を挙げてこの生き方に賛成であり同感である。
なぜならもう我々人間が原始へもどる事は不可能と言わざるを得ぬであろうし、現代人が老荘思想やその哲学を完全に理解実行出来るとは到底考えられないが故である。